世界遺産グアナファト。サンディエゴ教会。
2014年11月27日(木)。
グアナファトは18世紀に世界の約三分の一の銀を産出していた。銀によって繁栄した当時を最も象徴しているのが、超豪華な教会群である。バロック様式やメキシコ独特のチュリゲーラ様式と呼ばれる派手な装飾を施された教会が、グアナファトだけで20以上もあり、そのほとんどが銀の鉱山主によって建設されたものである。
サンディエゴ教会はフアレス劇場の西隣にある。
チュリゲーラ様式のファサードである。ピンクがかった赤い砂岩で覆われている。元々の教会が洪水により損害を受けたため、銀鉱山の所有者であったヴァレンシア伯の寄進により。1780年から1784年の間に再建された。
サンディエゴ教会。内部。
祭壇背後の壁飾りは19世紀に新古典主義様式に再建された。ギリシア・ローマ風の簡素な造りになっている。
サンディエゴ教会の西側。背後はピピラの丘。
地下道路とつながっている。
ラ・ウニオン公園の西側。
サンディエゴ教会の北側にある。
トゥルコ通り。
泊まった宿のある通りを北に抜けて、ラ・コンパーニア聖堂へ向かう。バシリカと「口づけの小道」はこのあとにすると、こういう順路になる。
ラ・コンパーニア聖堂。
左の背後にグアナファト大学が見えている。
ファサードはチュリゲーラ様式である。内部には3つの身廊がある。聖堂と大学は関連があり、イエズス会が二つの施設の敷地を所有し、大学の基になったカレッジを経営していた。
18世紀、イエズス会士はたいてい上流階級の出身であり、財力もあった。1746年、イエズス会は教会建設を決定し、銀鉱山王たちが建設した教会と競える規模の建設資金を募った。約20年の建設期間を経て、1767年に聖堂は竣工した。
しかし、その頃イエズス会はその勢力の増大を恐れたスペイン・ポルトガルから追放され、植民地においても同様の扱いを受け、6か月間教会を使用しただけでメキシコから追放されてしまった。
聖堂は放置されて朽ちてしまい、1804年にイエズス会が許されて戻ったあとの1808年にほぼ崩壊してしまった。
1869年にバロック様式を新古典様式に変えて教会堂の再建が始まるが、前面のファサードはチュリゲーラ様式を踏襲した。ドームなどの増築を加え、1884年に聖堂全体が完成した。
バシリカ。
ラパス広場前の高台に建てられ、高さはその威厳を増している。外観は黄色に塗られ、枠部とドームはワインレッド色に塗られている。教会堂入口にはピンクの砂岩で装飾されている。
教会堂は1671年にメキシコ・バロック様式により建設された。メキシコ独立後になると。銀鉱山王たちが手を加えており、ヴァレンシア伯は時計塔を増築した。
1696年にマイナー・バシリカの特権を、1957年にはフル・バシリカの特権を与えられた。
バシリカ。入口。
敷物に記してあるように、「Basilica Colegiata de Nuestra Señora de Guanajuato」が正式名称である。
バシリカ。内部。祭壇方向。
バシリカ。内部。祭壇。
宝石に覆われたマリア像はスペイン本土にあったもので、アラブの侵攻後800年以上洞窟に隠されていたものを銀産出に応えて1557年にスペイン国王フェリペ2世が贈ったものである。
バシリカ。内部。祭壇。
バシリカ。内部。側廊。
バシリカ。内部。入口方向。
口づけの小道への入口付近。
地下道路への入口が見える。
口づけの小道。
小道の間が狭いので、通りの向かい側にある家のバルコニーを介して、恋人たちが口づけを交わしたという伝説がある。
18時15分頃、これにて市内見学を終了。日本人青年が経営する小さな軽食堂「デリカ・ミツ」へ向かう。場所が分かりづらく、捜したあげく、サンロケ教会の東下の坂道下へ階段を下り、ようやく見つけた。18時30分を過ぎて、閉店しかけていたが、日本人留学生らしい数人が食べており、常連らしい日本人女性も立ち寄ってきて、人気があるようだった。食材は余り残っていなかったが、何とか和食を食べることができたので、満足して宿に帰った。
翌日は朝のバスでメキシコ・シティへ帰る。