青洲の里は、世界初の全身麻酔手術成功など世界の医学史に名を残す医聖・華岡青洲(1760~1835年)の顕彰をテーマに、青洲の自邸兼病院・医学校であった歴史的建造物「春林軒」を中核として開設された公園・博物館である。
和歌山市出身の小説家である有吉佐和子によって、小説「華岡青洲の妻」が1966年に出版されてベストセラーとなり、青洲の名前が広く知られるようになった。
春林軒は当時の青洲の住居兼診療所で医学校でもあった建物群で、主屋と蔵は天保年間に竣工したものを平成9年に修復したもの。薬調合所、病室、看護婦宿舎その他の建物も発掘調査などに基づいて同時に復元された。
文化元(1804)年、世界初の全身麻酔手術を成功したことで華岡青洲の名声は広まり、全国から多くの患者と入門希望者が次々と集まった。彼らを迎え入れて育成するため青洲は建坪20坪余りの自邸兼診療所の近くに、建坪220坪の住居兼病院・医学校を建設した。これが「春林軒」である。輩出された門下生は1,033名、大坂・中之島に作られた分校「合水堂」門下生を含めると2,000名を超え、彼らにより日本全国に華岡流外科医術が広められた。全国60余州のうち入門者のなかったのは壱岐の国だけだったという。
竹屋蕭然烏雀喧(ちくおく しょうぜん うじゃく かまびすし)、風光自適臥寒村(ふうこう おのずから かんそんに がすにてきす)、唯思起死回生術(ただに おもう きしかいせいのじゅつ)、何望軽裘肥馬門(なんぞ けいきゅう ひばのもんを のぞまん)。
青洲は門下生が春林軒塾を卒業する際に、免状とともに自作の漢詩を添えた自画像を贈り、医師としての心構えを諭した。その意味は、「私の家の周りでは鳥が鳴き、私にはこのような田舎に住むことが合っている。ひたすら思うことは、病人を回生させる医術の奥義を極めたいことのみ。高価な着物や肥えた馬といったぜいたくは望まない。」ということである。
生薬の原料となる植物を乾している様子が再現されている。
かつての待合室、診察室、奥の間などとして使われていた主屋の各部屋では、青洲がはじめて麻酔を使用した手術風景をはじめ、家族の協力を得て行った麻酔の実験、門弟に講義をする様子などが、人形と音声を使ってリアルに再現されている。
麻酔なしの手術は患者にとって地獄の責め苦であった。一方、外科医にとっても痛みに耐えかねて暴れ、泣き叫ぶ患者の手術を続けることは大変なストレスで、痛みのない手術を可能にする麻酔の開発は患者だけでなく、外科医にとっても待ち望まれていた。
華岡青洲が開発した麻酔方法は、曼陀羅華(チョウセンアサガオ)など数種類の薬草を配合した麻酔薬「通仙散」を内服するというものであった。チョウセンアサガオは三世紀頃の中国で麻酔薬として使われていたと伝えられていたが、具体的な配合や使い方に関する記録は何も残っていなかった。青洲はチョウセンアサガオにトリカブトなど数種類の薬草を加え、動物実験だけでなく、実験台となることを申し出た実母の於継の死と妻の加恵の失明の末、20年の歳月をかけて通仙散を開発した。
文化元(1804)年10月13日、青洲は世界で初めて全身麻酔下に乳がんの手術を行い、見事に成功させた。手術の方法は青洲が考案したメスやハサミを用いて、がんの部分だけを乳房から摘出するというもので、乳房部分切除術とよばれる方法に相当する。
患者は大和国五條(現奈良県五條市)の藍屋利兵衛の母で名前を勘といい、齢60歳。左の乳房に一年前からしこりがあり、文化元年9月初旬、青洲の診察を受けた時には左の乳房が全体に赤く腫れていた。手術後の経過も良く、勘は手術から二十数日ほどで故郷五條へ帰ることができたが、4ヶ月後に亡くなった。
この成功を受けて青洲のもとに、全国から乳がん患者が集まり、青洲が手術した乳がん患者の数は152名におよんだ。152名中33名の経過が明らかになっており、術後の生存期間は最短8日、最長41年で、平均すると2~3年という。多くの患者は勘のように進行乳がんであり、それを考えると青洲の手術の成績は素晴らしいものであったといえる。
近代麻酔の起源とされるウィリアム・モートンがエーテル麻酔下手術の公開実験に成功したのが1846年のことで、青洲の業績はそれに先立つこと約40年の快挙であった。シカゴには人類の福祉と世界外科医学に貢献した医師を讃える国際外科学会の栄誉館があり、現在も青洲に関する資料が展示されている。
柿畑の先には、高野山から西へつながる山並みが広がっていた。
春林軒の見学を終え、前庭で弁当を食べかけている遠足の小学生たちの間を抜けてフラワーヒルミュージアムの展示室へ向かった。
展示室では、青洲が使っていた手術器具や愛用のメガネ、克明に記録された治療に関する資料や標本など、彼の業績の偉大さを深く知ることのできる資料が展示されている。特に、メスや鉗子など工夫された器具10点ほどには目を奪われた。
また青洲の医療に対する考え方を示した言葉である「内外合一 活物窮理」は印象的であった。
内外合一とは「外科を行うには、内科、すなわち患者の全身状態を詳しく診察して、十分に把握した上で治療すべきである」という意味で、活物窮理とは「治療の対象は生きた人間であり、それぞれが異なる特質を持っている。そのため、人を治療するのであれば、人体についての基本理論を熟知した上で、深く観察して患者自身やその病の特質を究めなければならない」という教えである。
駐車場の北にある華岡家代々の墓所へ向かう。墓所は分かりづらく、モニュメントがならぶ小公園があり、奥にあるのかと、昼食をとっている老夫婦の間を抜けて探してもなかった。小公園の右に丘があり、そこが墓所なのだが、階段手前にある案内板は小さく、位置も不適当なので気付きにくい。
墓所の入口にある。青洲の遺子および門人が建立。紀伊続風土記編纂時の総裁で紀伊藩儒官の仁井田好古の撰書による。
このあと、車で南西5分ほどのところにある、青洲の妻の実家である旧名手宿本陣へ向かう。
旧名手本陣妹背家住宅ともいい、主屋・米蔵・南倉が重文、敷地全域が国の史跡に指定されている。華岡青洲妻加恵の実家としても知られる。
妹背家は、中世以来紀伊八庄司の名家として名手荘および丹生谷を領した土豪であった。江戸時代になると、紀伊藩から地士頭として処遇され、寛永16年からは名手組の大庄屋を世襲した。妹背家の邸宅は名手宿にあって大和街道に面していたため参勤交代時の本陣として定められた。
現在の本陣は正徳の火災の後に、享保3(1718)年から延享2(1745)年間にかけて再建されたものである。
主屋の西にある。寛永20(1643)年の棟札があることから、火災から焼け残った可能性も考えられている。
このあと、粉河寺へ向かった。