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真田庵。北東側から。平成27年11月5日(木)。和歌山県九度山町。
真田昌幸・信繁(幸村)父子の屋敷跡。正式には善名称院という尼寺で、寛保元(1741)年に大安上人が、真田父子の庵跡と伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まりである。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、死罪を言い渡されたが、長男信之の嘆願により、高野山に配流の身となった。宿坊契約のあった山上の蓮華定院に16人の家来とその従者あわせて60人近い大所帯で身を寄せたが、幸村の妻などがいたため女人禁制の高野山では暮らせず、また寒かったため、6ヶ月ほどで山を下り、麓の九度山に移り住んだ。
真田幸村(信繁)は、生涯の中で最も長く14年ほど暮らしたのち、慶長19(1614)年10月に大坂城へと脱出した。
高野山町石道を展望台手前から引き返し、柿畑の中の車道を下って、道の駅東の交差点へ出た。真田庵への案内標識にしたがい、川の沿った車道を進むと、真田庵の駐車場があり、左の民家を抜ける狭い道を通ると、真田庵に着いた。
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真田昌幸の墓碑。Clik here to view.

真田昌幸は、慶長16(1611)年に亡くなり、息子である幸村は、父の供養のために、森の中に宝篋印塔を建てた。
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真田宝物郷土資料館。Clik here to view.

赤備えの甲冑などが入口右横の部屋に展示されている。
館内は無人なので、入館料200円を料金箱に入れて入った。
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真田宝物郷土資料館。麻地六連銭文陣幕。Clik here to view.

真田幸村が野営時に使用したものと伝わる。
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真田宝物郷土資料館。真田幸村自筆の書状。Clik here to view.

真田父子や家来らは扶持がなく、生活を維持するため、知己であった紀州藩主浅野幸長から年50石の合力米から融通を受けたり、長男信之に援助を頼んだ。
長々の山住いで借金も多いと兄の信之に宛てた無心状や、病気がちで歯も抜け、髭も白くなったと姉婿に嘆きを寄せた書状も残っている。
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真田の抜け穴。真田古墳。Clik here to view.

真田庵の北東200mほどの場所にある。「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説が残っている。
このあたりは、紀ノ川と丹生川が開析した段丘状台地の南斜面中腹に位置する。
真田の伝説が残る場所として、真田古墳と名付けられた。古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳で、墳丘が削られ、石室は露出している。
道の駅九度山へ戻って車に乗り、西2.5㎞ほどの地点から南の山中へ屈曲した山道を昇ると、20分ほどで、標高470mほどの天野の里という山間部の開けた盆地へ至り、丹生都比売神社を見学した。
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丹生都比売神社。鳥居の奥に重文の楼門。伊都郡かつらぎ町。式内社(名神大社)、紀伊国一宮。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つ。楼門は室町時代中期の再建。Clik here to view.

空海が金剛峯寺を建立するにあたって丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられ、古くより高野山と深い関係にある神社である。神社背後の尾根上には高野山への表参道である高野山町石道(国の史跡、世界遺産)が通り、丹生都比売神社は高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず丹生都比売神社に参拝する習わしであったという。
祭神の丹生都比売神については、神功皇后が新羅へ出兵したさい、丹生都比売神の託宣により赤土を得た皇后が勝利したという伝承がある。赤土は硫化水銀のことで、水銀の採掘に携わった丹生氏の氏神としての性格があるとされ、また、水分りの神としての性格もあるとされる。
のちに祭神に加わった高野御子神は、高野山開創伝承に関わった神と考えられる。空海が丹生神から土地を譲られたときには、この神が狩場明神と称して、猟師に姿を変え白・黒2頭の犬を連れて空海を案内したとされる。
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丹生都比売神社。本殿。重文。春日造。二殿の高野御子神、四殿の厳島神は室町時代中期、一殿の丹生都比売神は江戸時代中期、三殿の気比神は明治時代後期の再建。Clik here to view.

太鼓橋は修理中であった、観光バスが来ていて団体客がいた。天野の里は良質な米の産地として有名という。西行が住んだという西行堂も近くにある。復路は往路からはるか西の西高野街道を下って、紀ノ川北岸の国道24号線へ向かった。
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妹山・背ノ山・船岡山を道の駅「紀ノ川万葉の里」の川岸から望む。Clik here to view.

紀ノ川北岸にある背ノ山(167m)は大化の改新の詔のなかで、畿内の四至の南限とされる「紀伊の兄山」に比定されている。船岡山の紀ノ川に浮かぶ中州状の島である。妹山は紀ノ川南岸の台地状の高台である。万葉の時代から歌枕の地であり、万葉集では「妹背山」としてうたわれている。
紀の川市の青洲の里へ向かう。