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Channel: いちご畑よ永遠に
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和歌山県九度山町 慈尊院 丹生官省符神社 高野山町石道

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慈尊院。大師堂と多宝塔。
平成27115日(木)。和歌山県九度山町の道の駅「柿の郷くどやま」で起床。午前750分頃、道の駅に駐車したまま、徒歩で慈尊院へ向かった。高野山町石道を歩くためでもある。案内に従って歩くと、昔ながらの狭い道となり、山中の趣のある橋を渡ると、間もなく慈尊院の門前に出た。室町時代の築地塀に感心しながら、門をくぐって境内に入ると、白装束で身を包んだ巡礼姿の一団が大師堂(四国堂)を参拝しているところだった。
慈尊院は古代・中世の高野山表参道である町石道の玄関口にあたる。
 
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慈尊院。右から弥勒堂、本堂、多宝塔。
慈尊院は、弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に伽藍を草創し、高野山一山の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所とした。
 
高齢となった空海の母(玉依御前)は、讃岐国多度郡(香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度は必ず20kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられたという。
 
空海の母は承和2835年)に亡くなったが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
 
廟堂である重文の弥勒堂は鎌倉時代後期の建築で、桁行三間・梁間三間、一重、宝形造・檜皮葺の低い建物で、平安時代末期の様式を残しており、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産として登録されている。
 
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慈尊院。弥勒堂。
空海の母が弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰が盛んになり、女人禁制の高野山にたいして慈尊院は女人結縁の寺として、「女人高野」とよばれている。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも安産祈願の乳型を奉納する寺として描かれており、現在もこの信仰は続いている。

小説「紀ノ川」も映画「紀ノ川」も心に沁みる名作である。
 
多宝塔横の石段を登ると、丹生官省符神社の境内に出る。
 
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丹生官省符神社本殿。
重文。室町時代後期・末期。
丹生官省符神社は弘法大師が慈尊院を開創した弘仁7年(816年)、その守り神として地元にゆかりのある丹生都比売・高野御子の二神を祀った神社である。
社殿三棟は木造一間社春日造、桧皮葺。北に面して建てられている。官省符荘の総氏神として栄えた。
 
官省符荘とは太政官符・民部省符を得て不輸租を認められた荘園を指すものであるが、この地域の高野山領の荘園の固有名称として使用されている。
高野山金剛峰寺は、慈尊院に設置された金剛峯寺の政所が所在した高野山の北麓地域を中心に実質的に領田の支配をしていたが、領田が紀伊各地に散在し、実態のないものになっていた。
1048年(永承3年)には藤原頼通が政所とは紀ノ川を挟んで対岸の地、すなわち紀ノ川北岸地域を施入した。翌1049年(永承4年)に金剛峯寺は朝廷に対して紀伊国内に散在していた旧来の免田を返上する代わりに河北(紀ノ川北岸地域)の周囲に寺領を集約してその一円支配を求め、更に既に金剛峯寺領として確立していた河南(南岸地域)の一円支配についても正式に認めるように申し入れて認められ、領域型荘園としての官省符荘が成立した。
 
もっとも、平安時代・鎌倉時代において高野山金剛峰寺の実質的な所領は少なく、官省符荘などは金剛峰寺座主の東寺の支配下にあり、独自に支配していたのは那賀郡の荒川荘に限られていた。
平安時代末に寺領を多く獲得したのはのちに根来寺となる大伝法院で、高野山領が拡大したのは鎌倉時代から南北朝期であった。
 
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高野山町石道。町石。
高野山町石道は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のうちの参詣道として登録されている。
高野山への道標として、1町(約109m)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる高さ約3メートルの五輪卒塔婆形の石柱が建てられた。
高野山上の根本大塔を起点として慈尊院までの約20kmの道中に180基、大塔から高野山奥の院まで約4kmの道中に36基の、合計216基の町石が置かれていた。
町石は、鎌倉時代の文永2年(1265年)から20年の歳月をかけて弘安8年(1285年)に完成し、当初のものが179基現存している。
町石の材質は花崗岩で、摂津の御影から船で運ばれた。文字はV字型の薬研彫りで刻まれている。
 
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高野山町石道から眺める紀ノ川平野。
中央右寄りに紀ノ川南岸九度山の街並み。左に和泉山地。右は高野山へと連なる山並み。
 
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高野山町石道から眺める紀ノ川平野。
高野山町石道のワンデイハイクとして、通常は南海高野線九度山駅から慈尊院を起点に、163町石付近の展望台を経て、古峠から上古沢駅まで9.5㎞、約3時間30分のコースが紹介されている。
また、逆に上古沢駅から逆コースの下りが楽だともいわれる。
旅行前は上古沢駅から下ろうかと思っていたが、旅行前からの体調不良のため、展望台まで歩いて往復することにした。
丹生官省符神社の横から町石道の旧道を歩き、緩く坂道を登っていった。急な坂道を登っていくと、展望の良い地点に出たので、展望台まで行かずに、その地点で折り返すことにした。丹生官省符神社から20分程度歩いた地点であった。
下りは、真田庵を目指したので、途中の車道から短絡路を捜した。右方向の柿畑が続く道を下ると、柿を収穫中の夫婦がいたので、真田庵への道を尋ねた。このまま下ると、慈尊院へ下ることになるので、車道を道なりに下ったほうがよいとのことだった。
ところで、どこから来たのと尋ねられたので、名古屋から来ましたというと、収穫した柿を2個渡してくれた。甘いから、九度山で買ってくれればということだった。柿の郷というとおり、周囲は柿の木畑ばかりで、柿がたわわに密生している。
柿は皮を剥いて食べねばならない。自宅ならピーラーで簡単に剥けるが困ったなと、考えて歩いていると、登山道具にヴィクトリノックスのナイフがあることに思い当たった。翌朝、ナイフで柿を剥いて食べると、確かに美味かった。

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