和歌山県を平成27年11月4日から18日まで15日間で車中泊旅行し、歴史散歩・温泉などを楽しんだ。自宅・名古屋からの往復走行距離は概算で1750km、13300円。NBOX+の燃費は、1km当り7.6円。
旅行費用は約43,000円。朝夕食は車内でカセットコンロを使い、レトルトやラーメンが基本。1食当り、ラーメンが35円、レトルトのカレー・ライスが130円、昼食は袋菓子2点170円ほど。
水は名水などを現地調達するので、購入しない。お茶はヤカンで作る。
宿泊費用は道の駅での車中泊なのでゼロ。無料wifiは、道の駅でも利用できるところが多いが、遅い。MVNOを使用することが多かった。
今回は、体調が悪く、登山は数山予定していたが、簡単な和歌山県最高峰の龍神岳となった。途中にある護摩壇山には平成14年6月22日に伯母子岳とともに登っている。終盤に那智の滝の裏山にあたる烏帽子山を予定したが、台風による登山道崩壊を知り断念した。
代わりに、熊野古道中辺路の滝尻王子から近露王子を5時間ほど、発心門王子から熊野本宮大社まで2時間ほどを踏破した。
見学ポイントは山川出版社の県史シリーズ、県別歴史散歩シリーズから選別した。県北東の橋本市から紀の川沿いに西進し、和歌山市から南下、途中護摩壇山・龍神温泉に寄って、御坊市から南下、田辺市から中辺路へ入り、再び田辺市へ戻って白浜、串本、那智勝浦まで行き、熊野本宮大社へ立ち寄って、新宮市で終わった。
高野山は2回ほど見学しているので除外した。和歌山城・養翆園は30年ほど前に、熊野本宮大社・湯の峰温泉は15年前に、那智の滝・瀞峡は50年前に観光している。
平成27年11月4日(水)11時頃名古屋市守山区の自宅を出発、名阪国道経由で針から南下し、大淀町、五条市を経て、和歌山県橋本市に入ったのが15時30分頃。時間がありそうだったので、翌日からと思っていた隅田八幡神社へ立ち寄ることにした。
隅田八幡神社。
国宝の人物画像鏡を所蔵していることで有名。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語史上の貴重な資料で、高校日本史では必ず言及されるはずである。20年ほど前に寄託されている東京国立博物館で実物を見た記憶がある。
その隅田八幡神社は一体どこにあるのか。ナビと現実の地形を見ていると、神社は紀ノ川北岸へ突き出ている舌状台地の先端部に位置していた。
隅田八幡神社は京都の石清水八幡宮の別宮として、隅田荘が成立する10世紀後半頃に勧請されたと考えられ、隅田荘の総氏神という性格をもっていた。
隅田荘の起源は、藤原兼家が石清水八幡宮内に建立した三昧院の料所にあり、当初は寛和2(986)年に正税が免除されるにすぎなかったが、永祚2(990)年には官物が免除され、万寿5(1028)年には荘官・寄人などの臨時雑役が免除される免田・寄人型荘園に発展し、12世紀半ばには領域型の中世荘園となった。
隅田八幡神社所蔵人物画像鏡レプリカ碑と説明文。
径19.8センチの倣製鏡。内区は中国の人物画像鏡をまねたもので、外区には「癸未年八月日十大王年男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿、遣開中費直・穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟」という48字の銘文がある。
癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
銘文については、多くの人が見解を示してきたが、定説はなく、「癸未(みずのとひつじ)年」は383年、443年、503年と推定される。
443年説では、倭王済が宋に使いを遣わして「安東将軍倭国王」の称号を得た年であるから、大王は、允恭天皇を指すものと解釈する。また、意柴沙加宮(おしさかのみや))は皇后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ、雄略天皇母)の宮処となる。この場合、男弟王は誰であるか、まだ分かっていない。
503年説では、諱に「斯麻」を持つ百済の武寧王(在位:502~523年)とする解釈が有力である。百済は当時倭国と緊密な外交関係をもち、大陸の文物を大量に輸出しており、鏡の作者「斯麻」を武寧王と推定する。
「意柴沙加(おしさか)」のようにすでに漢字を万葉仮名的に使用していること、天皇ではなく「大王(おおきみ)」と表記されていることなど古代史研究上きわめて重要な資料である。
古い時代に出土したものであることは確かだが、正確な出土年代や出土地は定かでない。
霜山城跡。南から北方向を眺める。
隅田荘を基盤に中世に活躍した荘官や名主らの在地武士の地縁的な結合を中心とした武士団の集団を隅田党あるいは隅田一族と称した。鎌倉時代後期に六波羅探題を世襲した重時流北条氏が地頭として隅田荘内に所領を形成すると、隅田氏はその家人となり、隅田荘の地頭代や探題の検断方に起用されたが、鎌倉幕府の滅亡時には近江番場で北条氏と運命を共にし、隅田氏の嫡流は一旦滅んだ。その後、隅田党は室町時代には守護の被官として活躍し、各地に城を築いた。
霜山城跡は隅田八幡神社と同じ舌状台地にあり、神社は東端、城跡は西端にある。規模は東西145m、南北98mで、隅田党の城跡では最も大きく、室町時代の館形式の城跡として県内屈指とされる。隅田党の下山氏や野口氏にかかわる城跡とみられ、永禄10(1567)年に守護畠山秋高が入城し、大和の三好三人衆と戦って敗走したと「多聞院日記」に記述されている。
霜山城跡。
東西の二つの曲輪からなっている。
近くを歩いていた老人に尋ねると、中央のあぜ道から城内へ入ることができが、堀も土塁も残っているという。東の池は濠が不要になって、造られたものらしい。
中に入ると、坂道があり上部に登ることができた。東と西の曲輪を分ける地点に出たようだが、よく分からないので、探索を諦めた。
16時30分になり、暗くなりかけたので、九度山町の道の駅「柿の郷くどやま」へ向かった。
翌日は真田幸村が隠棲していた真田庵などを見学。