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Channel: いちご畑よ永遠に
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和歌山県みなべ町 岩代の結松 千里の浜 千里王子跡 田辺市 高山寺 南方熊楠の墓

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有間皇子遺蹟・岩代の結松。和歌山県みなべ町。
平成271111日(水)。
御坊市から国道42号線を海岸沿いに南下して印南町を過ぎ、みなべ町へ入り、岩代の結び松はどこかと目を凝らしていると、廃屋の横に石碑が見えた。小公園でもなく、駐車スパースもないので、通り越して、左折した道路に路駐した。
 
斉明4(658)、孝徳天皇の皇子有間皇子が、蘇我赤兄の甘言で謀反の罪に問われ、斉明天皇と中大兄皇子の旅先の紀の湯(白浜湯崎温泉)に護送される途次、岩代で松の枝を引き結んで、「磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む」、「家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る(万葉集)
と歌を詠み、岩代の神に自分の平安の無事を祈った場所はこの辺りなのであろう。
近づいてみると、廃屋横の崖下には海岸が見え、サーファーはここから降りないようにという注意書きが書かれていて、とても感傷に浸れない。
 
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有間皇子結松記念碑。
徳富蘇峰筆の有間皇子結松記念碑は健在であるが、その前の説明板は倒れたままだった。
有間皇子は帰途、藤白坂でわずか19歳の若さで絞り首にされ、岩代の地はその後、熊野街道の名所となり、皇子を偲んだ歌が150余の歌集に約200首収められているという。
 
さらに南下し、千里の浜へ向かう。ナビでは海岸へ向かう道は千里観音しかない。海岸手前の丘陵地に入ると、広い未舗装の駐車場があった。端にある階段を下ると、中腹に千里観音があった。
 
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千里観音。
本尊は厄除け観音として名高い馬頭観音で、明治7年に神仏分離令により、千里王子神社より分祀された。近西国三十三箇所札所のひとつで、参道には三十三体の石造観音が祀られている。
桓武天皇の時代に如意輪観音菩薩を祀ったのが始まりで、その後、小栗判官が海で暴風雨にあった際に、如意輪観音に災難を救っていただいた御礼に、自ら馬頭観音を彫り奉納したと伝える。
天正21574)年の棟札が所蔵されている。
 
境内の車の横に男性がいたので尋ねると、浜で釣りをするために準備しているという。境内からさらに下ると、浜辺に出た。
 
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千里の浜。みなべ町。
古代では、岩代から目津崎までの浜を岩代の浜・千里の浜と呼び、熊野詣の大宮人がはじめて海浜を通るところで、その喜びは大変なことだったと考えられる。したがって、枕草子では「千里の浜、ひろうおもひやらる」と書かれているほか、伊勢物語、大鏡、新古今和歌集など多くの文献に千里の浜のことが記されている。
また、千里の浜はアカウミガメの産卵地としても名高く、毎年5月下旬~8月上旬にかけてたくさんのアカウミガメが産卵のために上陸する。
 
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千里王子から千里の浜を眺める。
 
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千里王子跡。
桓武天皇の廷暦年問(782806)に鎮座したと伝えられ、熊野九十九王子の一社として栄えた。古代から中世にかけて花山法皇、後鳥羽上皇など歴代上皇や責族が、近世では紀伊藩主や田辺領主をはじめとした多くの人々が当社に参詣している。室町時代には、貝の王子ともよばれ、応永34年に足利義満の側室の北野殿の参詣の際には浜辺で拾った貝を奉納している。
現在の本殿は安永5(1776)年に再建されたもので、熊野九十九王子社の本殿の中でも、切目(きりめ)、三鍋(みなべ)王子社と共に古い建造物である。
明治42年に近隣の須賀神社に合祀されたが、社殿は良好な状態で遺されている。合祀された御神体24体も、1945年の春にすべて復旧したという。本地仏として如意輪観音を祀る。
 
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花山法皇の歌碑。
千里王子の一隅に、今も古びて残っている。「旅の空夜半の煙とのぼりなば あまの藻塩火焚くかとや見む」。自分の亡骸を燃やしても、この辺りでは塩をつくるときの煙だと思うのであろうというような意味で、花山法皇は藻塩を煮詰める煙が千里の浜に立ちのぼるのを目にし、藤原兼家に欺かれて皇位を捨てた境涯のはかなさを歌に秘めた。
 
みなべで梅を買おうかと迷ったあげく、道路脇の魚屋に入って覗いてみたりして、結局田辺市へ向かった。翌々日から天候が下り坂になるので、翌日は熊野古道を歩くことにして、道の駅「大塔」を目指す。ただし、田辺市は見所が多いので、途次にある高山寺に立ち寄ることにした。
 
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高山寺。田辺市。
南方熊楠の菩提寺。田辺の市街地を一望できる高台にあり、弘法大師が開創したとされているお寺で、『弘法さん』の名で親しまれている。江戸時代文化131816)年建立の美しい多宝塔はじめ、広い境内には諸堂宇が立ち並んでいる。
南方熊楠は、この寺苑の一角にあった日吉神社(糸田の申神さん)境内から数多くの隠花植物を採集した。
長沢芦雪が滞在時に描いた寒山捨得図などを所蔵しているので、もしや拝観できるのかと期待したが、そういう案内はなかった。芦雪の絵は串本の無量寺ぐらいしか常時見学できる施設はないようだ。
 
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南方熊楠の墓。高山寺。
享年75。智荘厳院鎫覚顕真居士。
 
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南方熊楠の墓。高山寺。
昭和161229日逝去。
昭和4年昭和天皇に進講をした地である田辺湾の神島が見える方向に向けて建てられたという。
 
高山寺の境内や墓地では日没を前にして多くの人が清掃をしていた。このあと、市内の業務スーパーへ立ち寄ったのち、中辺路方面へ向かった。

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