平成27年11月11日(水)。
紀伊水道に臨み日高川河口から弓なりに砂利の海岸と松林が続く。松林は初代紀州藩主徳川頼宣が防潮林・防風林として日高平野の農業を守るために植林させたもので、現在も最大幅500m、長さ4.6㎞の松林が残っている。
御坊市の亀山城跡を見学したのち、美浜町の日の岬方面へ向かい、煙樹ヶ浜に立ち寄った。
紀伊半島の最西端。紀伊水道、四国の峰々や淡路島方面も見晴らすことができる。
日の岬の突端には白亜塔形の大型灯台である日ノ御埼灯台が立っている。明治25(1895)年に初点灯した。
御坊市内へ戻り、本願寺日高別院を目指す。途中、紀州鉄道の西御坊駅で列車をみかけた。
浄土真宗本願寺派の寺院。西本願寺の別院で、御坊市の地名の起源となった。
亀山城主の湯川直光は、享禄元(1528)年に摂津国江口で三好長慶の軍勢に敗れたが、山科本願寺の証如の助力で小松原館に帰還できたことから、天文年間に美浜町吉原に坊舎を建立し、次男の湯川信春を出家させ唯可としてその住職にした。
天正13(1585)年の紀州征伐により、吉原坊舎は焼失したが、文禄4(1595)年紀伊藩主浅野幸長の重臣・佐竹伊賀守が現在地に鷺森御坊の別院として坊舎を再建して、現在に至る。
本堂は文政8(1825)年の再建で、明治10年に本願寺日高別院の称を得た。
内部には入れなかった。東に進み、日高川を渡って、小高い丘の上の岩内古墳1号墳前の駐車場に至る。
岩内1号墳は、横穴式石室を持ち、墳丘に沿って北・東・西の三辺に周溝をめぐらした一辺の最長が19.3メートルの方墳で、7世紀中頃以降に造営された県内でも数少ない終末期古墳の一つである。
版築で墳丘の盛土が造営され、横穴式石室が開口している。
横穴式石室からは、木棺に塗られた漆の破片や銀装大刀、六花形の鉄製棺飾金具などが発見された。被葬者を安置した床面が7世紀後半頃に作り直されていることなどが分かった。
岩内古墳1号墳を含む岩内古墳群は日高川河口から約2㎞さかのぼった左岸丘陵上に立地している。
このあと、御坊市歴史民俗資料館へ立ち寄るが、休館であった。国道42号線を海岸沿いに南下してみなべ町方面へ向かう。