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和歌山県日高川町 安珍・清姫伝説の道成寺 御坊市 小松原館跡 亀山城跡

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安珍・清姫伝説の道成寺。仁王門。重文。石段。
平成271111日(水)。和歌山県日高川町。
道成寺は能、歌舞伎、浄瑠璃で名高い「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える。
寺伝では大宝元年(701年)文武天皇の勅願所および同天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の祈願所として紀大臣道成が建立したという。発掘調査の結果、8世紀初頭には当地に大伽藍が存在したことは確実である。道成寺創建にまつわり、宮子が「髪長姫」とよばれる地元の村長の娘であったという伝説も存在する。
 
現存する本堂は正平12年(1357年)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正16年(1588年)当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655年)、藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていった。
 
中世の山城・手取城跡の見学を終え、日高川の下流域に移動。JRの踏切を渡ると門前の商店街が続く。門前の駐車料は500円だったので、踏切近くの400円の駐車場へ車を置いた。仁王門を通ると、バスの団体が来た。縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法を聞くようだが、有料なので、無料の本堂と境内のみ見学した。
 
仁王門は重要文化財で元禄41691)年の建立。伽藍創建時の中門にあたる場所に建てられた。
 
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仁王門前の石段。
仁王門の前には能楽「道成寺」の乱拍子を生んだとされる62段の石段がある。遠近法の逆利用で心理的に短く感じるように、左右の土手が逆ハの字形に造成されている。平成15年に石段の前の道を直したときに、工事関係者から指摘されて気づいたという。
 
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本堂と三重塔。
南北朝時代に建てられ重文の本堂は入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)5間。
三重塔は宝暦131763)年の再建。高さ20m、総桧造り。
 
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道成寺縁起から。本堂内展示。
道成寺に逃げ込んだ安珍をかくまう僧。「その鐘を御堂の内に入れよ、戸を立つべし」
日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追う清姫は蛇の姿となり、火を吹きつつ川を自力で渡る。安珍は梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む。しかし清姫は許さず鐘に巻き付いて、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまう。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。
 
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安珍清姫の悲恋物語。
「娘道成寺」の人気は高く、日本の舞踊の最高傑作とされる。本堂内にはその舞台写真などが多数奉納され、演劇公演の成功を祈る人々が蝋燭に願いを込めて奉納していた。
 
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元の鐘楼の場所と入相桜(いりあいざくら)。
道成寺の初代鐘楼の場所と推定される場所には、入相桜という桜が植えられ、古来から有名であった。古今和歌集に能因法師の歌がある。「山里の春の夕暮れ来て見れば入相の鐘に花ぞ散りける」。夕方の鐘は、日の入り合い時に打たれるので「入相の鐘」とよばれた。
桜の植え込みの周囲からは、焼けた土が見つかっている。道成寺の初代鐘楼の場所で、平安時代に世人を驚かすような放火心中があったのか、単なるたき火の跡かは謎である、と記してあった。
 
JRで1駅西の御坊駅の南東にある湯川氏の小松原館跡へ向かう。
 
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小松原館跡。湯川神社。御坊市。
湯川氏は甲斐源氏武田氏の末裔と伝え、鎌倉時代後期に熊野街道の要地であった道湯川(田辺市中辺路町)に本拠を置き、次いで牟婁郡に進出して、芳養(はや)を本拠とした。
南北朝時代に、熊野八庄司の一人であった湯川光春は日高郡に進出し亀山城を本拠とした。室町時代には幕府奉公衆として活躍し、紀伊守護畠山氏に属して勢力を築いた。戦国時代には紀州国人領主の旗頭的存在として勢力を振るった。天文18(1549)年頃、湯川直光は、当時の交通の要所であった小松原に小松原館を築き、平時の居館とした。
 
天正131585)年、羽柴秀吉が紀南に進攻し、湯川氏の本城である亀山城を攻撃した。亀山城主湯川直春は秀吉軍に抗戦し、帰順を主張した娘婿の手取城主玉置直和を攻め手取城を焼き払った。
しかし、豊臣軍が迫ったため、亀山城を焼き払って近露村に退き抗戦を続けた。直春はゲリラ戦を展開して秀吉軍を悩ましたため、秀吉は湯川氏の攻略をあきらめ、本領安堵を条件に和議が成立した。紀伊が秀吉の弟豊臣秀長に与えられると、翌天正14年、湯川直春は大和郡山城に参候して秀長に挨拶したが、その席で毒殺された。直春の死後、嫡子光春は秀長に仕えて三千石を領した。秀長の没後は、浅野家に仕えて安芸に移った。
 
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亀山城跡。本丸入口。御坊市。
湯川氏の本城であった亀山城は御坊駅の北にそびえる標高117mの亀山山頂に築かれた。現在は公園として整備されている。
御坊駅の北東、亀山の南西山麓に丸山中央集会所があり、駐車させてもらう。案内板にしたがい、傾斜の急な簡易舗装された坂道を10分余り登ると、本丸の入口に着く。
 
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亀山城跡。
本丸は公園として整備されている。
 
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亀山城跡。
本丸は2段に分かれ、一段高い北の段には湯川氏の供養塔が立っている。こちらからは、南東に玉置氏の手取城方面の山並みが見える。
 
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亀山城跡。
南西の土塁の上に立つと、紀伊水道への眺望が広がっている。海岸沿いには煙樹ヶ浜とよばれる松林が続いている。
 
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亀山城跡。展望案内図。
 
このあと、美浜町の日の岬方面へ向かい、煙樹ヶ浜に立ち寄る。

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