月のワカとセロ・ブランコ。太陽のワカ・月のワカ遺跡。トルヒーヨ。
2015年6月15日(月)。
早朝にチャンチャン遺跡の見学を終え、バスとタクシーを乗り継いでトルヒーヨの太陽のワカ行きバスが運行されているというバス停Ovalo Grauに着いた。歩き方にはCMの表示があるコンビに乗れと書いてあるので、10分余り往来するバスの行先を注視していたが、見つからなかった。
仕方がないので、タクシーをつかまえた。運転手は20代の日系青年で、日本で働いたこともあり、兄弟は関東地方に住んでいるということだった。
太陽のワカ近くで下車。月のワカ方向へ歩いて行くが、施設は何もない。本来は博物館で降りるべきだった。月のワカの入場券は博物館入口で販売しているからだ。
太陽のワカ・月のワカ。想像図。
太陽のワカ・月のワカ遺跡はAD100年から700年頃までのモチェ王国の首都遺跡で、セロ・ブランコとモチェ川の間の約60ヘクタールにわたって広がっていた。
図の手前から、月のワカ、居住区、太陽のワカで、奥にモチェ川が流れ、左奥の太平洋へ注いでいた。
太陽のワカ・月のワカ。見取り図。
モチェの編年は、I期からV期にわけられ、I期は、紀元前後からA.D.200頃、II期は、A.D.200~A.D.300頃、III期は、A.D.300~A.D.450頃、IV期は、A.D.450~A.D.550頃、V期は、A.D.550~A.D.700頃においている(島田泉説)。
島田泉の説では、I期からモチェ川の政体は、「太陽のワカ」「月のワカ」と呼ばれる神殿ピラミッドの建設がアドベ(日干しレンガ)で建設され始めた。一方で北側に位置するランバイェケ川上流の政体が台頭しつつあった。両者は共通の観念や工芸技術を持ち、共存する形で発展をしつづけた。III期になるとモチェ川の政体は、南側にある各河谷の政体を従え、ランバイェケの政体は、下流域まで勢力を伸ばす。
IV期になると、モチェ川の政体は、ランバイェケの政体をしたがえた。これについては、土器や建造物に北側の政体に見られた特徴が消失し、新しい建物が建てられていることを証拠としてあげる。モーズリーの説では、南側は、モチェ川の政体による直接支配で、ランバイェケは間接的に支配されたと考える。
なお、モチェV期になると「太陽のワカ」と「月のワカ」は放棄されてしまい、より上流に区画された幾何学的な構造を持つ都市遺跡であるガリンドが建設された。また、ランバイェケでもよく似た構造を持つパンパ・グランデの都市が建設された。
モチェ川流域。地形と資源図。
モチェの人々は、灌漑水路による農業を行っていた。栽培された植物は、とうもろこし、豆、ピーナッツ、ジャガイモなどであった。
図の下は太平洋で、葦舟で漁を行ったことなどが知られている。
太陽のワカ。
月のワカとは約500m離れている。先スペイン期におけるアメリカ大陸最大の建設物とされる。基底部分は350m×160mで高さは50mあったとされる。
神殿というよりも、王宮・王墓であったと推定されている。
使用された日干しレンガは1億3千万個で、レンガに付けられたスタンプの図案から100以上の村が労働に従事させられたことが推測されている。
今日、建物の半分以上が失われているのは、17世紀初めに盗掘を目的とするスペイン人の組織がモチェ川の流れを意図的に変え、削り取ったためといわれている。
居住区の遺跡。月のワカ付近。
月のワカ。南にある管理施設区。
オアシスに似ている。
月のワカ。南にある管理施設地区。
受付で入場券を購入しようとしたら、さらに南にある博物館入口で販売していると言われた。
月のワカ。南にある管理施設地区。コンビ。
バスの行先系統プレートは基本がMで、上に小さくC-10と記してある。CMという表示ではなく、分からなかったはずだ。
博物館地区。入口の門。
門を入った入口の受付で入場券を購入した。
受付から見る博物館。
ザックを担いだままなので、疲れる。12時頃だったので、携帯食を食べた。40分ほど博物館を見学した。内容は立派だったが、撮影は禁止であった。
博物館から遺跡方向を眺める。
月のワカ、博物館地区入口の門、左の丘は太陽のワカ。
右から月のワカ、管理施設地区、太陽のワカ。
博物館から管理施設地区まで徒歩15分ほど。
管理施設の月のワカ見学窓口に行くと、氏名を書かされて、英語によるガイド時間まで待てといわれた。30分近く待たされた間に、売店で軽食と飲料を購入した。
月のワカ。見学通路最初のスロープ前。
月のワカ。見学通路から眺める管理施設地区とトルヒーヨに続く町並み。