2015年6月15日(月)。
太陽のワカが行政的な役割を持つのに対し、月のワカは宗教・儀式的な役割を受け持った。南北290m、東西210mの巨大な神殿であった。
大広場は180m×100mの広さ。北に神殿への入口があった。
英語ガイド同行により、月のワカ内部見学が始まり、まず、南東隅の生贄の儀式ゾーンから。
大広場が主要な生贄儀式の場であったが、南東隅の階上部分もセロ・ブランコに臨む儀式の祭祀場であった。
パティオ内にある黒い岩が生贄儀式の場であった。青年から成人の男性の人骨約70体が発見されている。 なかには、骨折したあとに治癒した痕跡をもつものが見つかっており、過去に戦争に従事した者と推測された。これらの骨は切断されており、人身供犠に捧げられたと考えられる。
頭蓋骨に致命傷の打撃痕のあるもの、頸骨前面に放血のための傷跡が確認されたものもある。
戦争が始まる。目的は相手を殺すことではなく。彼を捕まえることだ。敗北した戦士たちは生贄にされるために神殿へ連行される。
これらの囲い場の内一つは、女性がネコ科動物に攻撃される様子を描いたレリーフで装飾されていた。
雨乞いにために、生贄を捧げる儀式の場であり、関連する壁画が描かれていた。
戦争でとらえた捕虜を月のワカの上にある部屋で断食させる。儀式が近づくと捕虜たちは裸にされ、首に縄を巻かれて左手のスロープから広場に降りてくる。その後、広場の左奥の小さな部屋で、捕虜は儀式前の最後の準備をした。
雨乞いの儀式が始まると裸の捕虜を引き回して、捕虜の体中に傷をつけ、捕虜の体から流れた血を神官が杯で受け、王がその血を飲み、その周囲を踊り子が踊ったという。
月のワカからは、人間の血液反応を示す木製の杯や櫂が出土している。杯には血が注がれ、櫂は頭部を殴打するものであったと推測された。
人身供犠は征服戦争に関連した儀式ではなく、エルニーニョ現象による豪雨の前後に執り行われたことは分かっており、農業と関連した儀礼行為であった。また、犠牲の対象となったものは、戦士などのエリート層に限定されていた。
同時代のモチェ文化圏に属すランバイエケ(チクラヨ)のシパンでも同様の儀式が行われていた。
壁面は七層に分けられ、各層に同じデザインの画が繰り返し描かれています。最下層は勝利した戦士と敗北した戦士。第二層は神官。第三層はクモ。第四層は魚の神。第五層はドラゴン。第六層は天空を示す蛇、第七層は創造神アイ・アパエクという。
生贄儀式に使用された小部屋。
モチェの神話の世界を現したという細密壁画。