インカ帝国の起源に関する部分のメモ
「インカの言語」。ロドルフォ・セロン・パロミーノ。
ティティカカ湖地域から移住してきたインカの祖先たちは、その本来の言語としてプキーナ語を話していた。その言語は植民地時代の文献がインカの「秘密の言語」と呼んでいるものに相当する。インカたちは、プキーナ語からアイマラ語、ケチュア語の順に言語を習得し言語を取り替えた。
ケチュア語の祖語は中央アンデスにあった。クスコ・ケチュア語は南部下位グループの一つに過ぎない。したがって、ケチュア語を初めて広めたのがインカであるというのは誤り。パチャクティの治世以前のインカはアイマラ語を話していた。
アイマラ語の起源は中央アンデスで、話者はワリ文明の担い手であり、アンデス南部に拡散した。その後中央アンデスではケチュア語に浸食された。アルティプラノ(ティティカカ湖南部の高原地帯)地帯ではプキーナ語とウル語に取って代わられた。
プキーナ語はティワナク文明の担い手が使用していた言語であり、中央アンデス南部のティティカカ湖付近の広大な地域で話されていたが、19世紀後半に消滅した。プキーナ族(コリャ族)はティティカカ湖周辺にウル語族と同じ地域に住んでいたために混同された。
「クスコ」、「オリャンタイ」はアイマラ語起源。
神話時代のインカの名称「インカ」、「カパック」、神の名称「ティティ」、「インティ」、行政官の名称「マンコ」、宗教組織「ライミ」はプキーナ語起源。
インカの先祖は古代ティワナク文明の創始者の子孫であった。インカは言語習得と取り替えに関して3つの段階を経たと考えられる。
王朝の創始者、「ポキーナ湖」の先住民は母語としてその地域の言語を話していた。後に、当時アイマラ語が話されていたクスコ領域に定着すると、神話時代の子孫たちは、少数民族であったために数世代後に完全なアイマラ語話者となった。そして最後に、チャンカ族に対する勝利を収めたのち、パチャクティの子孫たちは将来の征服のための媒介言語としてチンチャのケチュア語を撰んだであろう。
プキーナ族の離散。ティワナク国家の崩壊は10世紀末から11世紀に起こり、国が分裂して古代国家の周縁部に向かう移住が起こった。長(マンコ)やカパック、イキの名称を持つ者たちに導かれてインカの祖先が移住した。
「DNAから見たインカの起源」 篠田謙一
約2万年前の最終氷期の最寒期を中心とした時期に、アメリカ先住民の祖先集団が、ベーリンジアとよばれる、当時は陸続きだったベーリング海峡にあたる地域で数千年間にわたって隔離され、その後1万6000年ほど前にアメリカ大陸に進入して、一気に南北アメリカ大陸に拡散した。この隔離集団における女性の数はおよそ1万人、新大陸に進出したさいには5000人に満たない集団であったにもかかわらず、大陸進出後は爆発的に人口を増やしていった。
初期拡散後に新大陸各地に定着した集団同士は、その後互いにそれほど交流しなかったので、地域による違いは大きい。つまり、全体としての遺伝的多様性は小さいが、地域集団同士の間の遺伝的な違いは大きい。
インカの人々のDNAは、ティティカカ湖周辺などのアルティプラノの集団と類似する。
「インカ国家の起源」。ダグラス・スミット。ブライアン・バウアー。
中央アンデスにおける後期中間期。AD1000年頃に起こったアヤクチョのワリとティティカカ湖地域のティワナクの崩壊に続くのが後期中間期(1000~1400年)。クスコが初期国家として出現した。
クスコ盆地。日常的な戦争が欠如していた。農業用テラスのシステムを建設し、在地のエリートが農業生産を改善し、余剰生産物をコントロールし始めた。1200年から1400年に居住域ネットワークが拡大。都市センターとしてのクスコが発展した。インカ国家の形成は遅くとも1300年頃までには達成した。
クスコ以外の地域は小さい政治的集団が割拠した状態であった。
クスコ盆地周辺のアンダワイラス地方には、後期中間期には強力な政治的統合という証拠がなく、パチャクティ神話に登場するチャンカが強力な民族集団であったとは考えられない。
インカの国家形成は、クスコ周辺地方に散らばっていた異なる規模のいくつもの民族集団、特にルクレ盆地のピナワとモイナ、マラス地域のアヤルマカを統合することで進展した。