2015年7月6日(月)。
マリア・ライヘが建設したミラドールから乗合バスに乗って北へ10分ほどのマリア・ライヘ博物館へ向かった。マリア・ライヘの旧居が博物館になっている。
マリア・ライヘ(1903~1998年)はドイツ人の考古学者で、ナスカの地上絵研究に半生を捧げたことで知られる。1903年ドレスデンで生まれ、ドレスデン工科大学において数学、地理学、物理学を学ぶ。ナチスによる支配を嫌って1932年に29歳でペルーに渡り、クスコにあるドイツ領事の子供たちの家庭教師として働き始める。その後、リマで学校教師をするかたわら考古学者フリオ・テーヨの助手として学術論文の翻訳も始め、考古学への関心を深めた。
ライヘは1939年にリマで行われた国際会議で、地上絵は天文暦であるという説を唱えたアメリカ人考古学者ポール・コソックに出会い、翌年から彼の助手となり、ナスカの地上絵研究者の道を歩むことになった。1941年からナスカに滞在し、地上絵の測量と記録作業を始め、地上絵は太陽の暦、および天体観測台として使われたという説を提唱した。
ライヘは地上絵の線を守るために、ほうきできれいに掃除することもあった。
ライヘの業績は地上絵の保存活動にあり、地上絵を道路による侵食(地上絵の一帯はパン・アメリカン・ハイウェイから近かった)や、さまざまな政府の開発計画から守るよう提言したり、一帯への一般の往来を制限するよう政府を説得するなどして、自分の財産のほとんどをその運動に費やした。一方で、ハイウェイの近くにミラドールを建設し、観光客が地上絵を見やすいようにもした。
1993年、功労十字勲章を授与され、1994年にはペルー市民となった。1998年6月8日、リマの空軍病院で卵巣がんのため95歳で死去。遺体はナスカ近郊の生前の旧居であるマリア・ライヘ博物館敷地内に埋葬されている。
向い側はサン・ホセの町。
ナスカ地方には渦巻きをはじめとする様々な形の水路が、川や谷沿いに約50ヶ所設けられている。水の汲み出し口は地表から数m下がった所にあり、渦巻き状になっているのは地下に下るための通路であるため。この地方の人々はここから水を汲み上げ、乾燥した砂漠で農耕に従事していた。
遺体はアドベを積んだ墓室に、織物にくるまれ、体を折り曲げて入れられる。