Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

ナスカ マリア・ライヘ博物館 その1

$
0
0
イメージ 1
マリア・ライヘ博物館。入口。
201576日(月)。
マリア・ライヘが建設したミラドールから乗合バスに乗って北へ10分ほどのマリア・ライヘ博物館へ向かった。マリア・ライヘの旧居が博物館になっている。
 
イメージ 2
マリア・ライヘ。
マリア・ライヘ(19031998年)はドイツ人の考古学者で、ナスカの地上絵研究に半生を捧げたことで知られる。1903年ドレスデンで生まれ、ドレスデン工科大学において数学、地理学、物理学を学ぶ。ナチスによる支配を嫌って1932年に29歳でペルーに渡り、クスコにあるドイツ領事の子供たちの家庭教師として働き始める。その後、リマで学校教師をするかたわら考古学者フリオ・テーヨの助手として学術論文の翻訳も始め、考古学への関心を深めた。
 
イメージ 3
マリア・ライヘ。
ライヘは1939年にリマで行われた国際会議で、地上絵は天文暦であるという説を唱えたアメリカ人考古学者ポール・コソックに出会い、翌年から彼の助手となり、ナスカの地上絵研究者の道を歩むことになった。1941年からナスカに滞在し、地上絵の測量と記録作業を始め、地上絵は太陽の暦、および天体観測台として使われたという説を提唱した。
 
イメージ 4
ほうきを持つマリア・ライヘ。
ライヘは地上絵の線を守るために、ほうきできれいに掃除することもあった。
ライヘの業績は地上絵の保存活動にあり、地上絵を道路による侵食(地上絵の一帯はパン・アメリカン・ハイウェイから近かった)や、さまざまな政府の開発計画から守るよう提言したり、一帯への一般の往来を制限するよう政府を説得するなどして、自分の財産のほとんどをその運動に費やした。一方で、ハイウェイの近くにミラドールを建設し、観光客が地上絵を見やすいようにもした。
 
1993年、功労十字勲章を授与され、1994年にはペルー市民となった。199868日、リマの空軍病院で卵巣がんのため95歳で死去。遺体はナスカ近郊の生前の旧居であるマリア・ライヘ博物館敷地内に埋葬されている。
 
イメージ 5
博物館周辺のパノラマ。                                                               ( 拡大可↑)
向い側はサン・ホセの町。
 
イメージ 6
博物館の入口周辺。
 
イメージ 7
博物館のナスカ方向。砂山の向こう側に地上絵が密集している。
 
イメージ 8
受付付近から。ブーゲンビリアが鮮やかに咲き誇っている。
 
イメージ 9
受付付近から奥の庭へ。ナスカ方向。
 
イメージ 10
博物館の受付と展示棟。
 
イメージ 11
博物館の受付と展示棟。ライヘが測量のときに使用した自動車。
 
イメージ 12
博物館の受付から北方向。十字架。
 

イメージ 14
ライヘが使用した測量器具。
 
イメージ 13地上絵「サル」の測量画。
 
イメージ 15
ライヘの描いた図面。
 
イメージ 16
ライヘの描いた図面。
 
イメージ 17
測量風景。
 
イメージ 18
祭祀センター・カワチ遺跡の航空写真。
 
イメージ 19
ナスカ地方の水路群。
ナスカ地方には渦巻きをはじめとする様々な形の水路が、川や谷沿いに約50ヶ所設けられている。水の汲み出し口は地表から数m下がった所にあり、渦巻き状になっているのは地下に下るための通路であるため。この地方の人々はここから水を汲み上げ、乾燥した砂漠で農耕に従事していた。
 
イメージ 20
地下水路のスケッチ。
 
イメージ 21
ナスカ地方の集落。
 
イメージ 22
ナスカ地方の埋葬。
遺体はアドベを積んだ墓室に、織物にくるまれ、体を折り曲げて入れられる。
 
イメージ 23
墓室に残ったミイラ。
 
イメージ 24
展示品。
 
イメージ 25
展示品。
 
イメージ 26
展示品。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles