日秘文化会館。
2015年7月8日(水)。
7月7日10時ナスカ発クルス社のバスで、リマへ帰り、江田インで宿泊。
7月8日はリマ空港23時45分発のアメリカン航空便で日本へ帰る。その間、ほぼ一日観光時間を予定していた。リマ市内の観光は6月19・20日、7月4日以来。
日秘文化会館、ワカ・プクヤーナ遺跡、天野博物館を見学した。パチャカマック遺跡も考えていたが、時間がなかった。同宿の男性と雑談していたので、出発時間が遅れ、江田インから1時間近く
歩いて、11時30分ごろ日秘文化会館に着いた。意外と立派な建物であった。
日秘文化会館は1967年5月12日開館。当時のペルー日本人社会の発意により建設され、開館式は皇太子同妃両殿下(当時)ご出席のもとに執り行われた。館内にはロビー,ホール,会議室,日本庭園,応接室等があり,日本語講座や各種文化講座が開かれているほか,最近ではペルー人,日系人により種々の会合,展示会,講演会開催等に利用されている。会館内には,日本人のペルー移住の歴史を示す資料を展示した移住史料館のほか,日秘劇場(1025席),大ホール(350名収容),大小会議室,展示室,図書室,茶室,食堂,道場がある。また,併設された日秘診療所には,日系,非日系を問わず,多くの人々が来訪している。
日秘文化会館。
日本とペルーの文化交流の場として、毎日多くの人々に利用されている。
書道や価値観など日本文化の伝統もしっかり受け継がれていた。
ペルー日本人移住史料館(平岡千代照)。
日本人ペルー移住80周年祝典委員会(平岡千代照委員長)は、日本人移民80周年記念事業として史料館建設を計画し1981年に開館した。2004年史料館建設に尽力した平岡氏の功績を称え、史料館にその名前がつけられた。
2011年にリニューアルされた史料館は、スペイン語だけでなく日本語の説明も併記されている。
平岡千代照とは誰か、最初は女性かと思ったが、ペルーの家電販売チェーン店の創業者で、立志伝中の人物であった。
1914年熊本県生まれ。1933年19歳の時に兄の呼び寄せでペルーに渡る。アンデス山間部の小都市ワンタで商店の番頭を経て独立、手芸用品店を構えた。ワンタは当時、内陸で産出するコーヒーやカカオ豆、フルーツなどの集積地であった。
その販売手法は独特で、持ち合わせのない農民には無利子のクレジット販売を行い、必ず針1本などささやかな「おまけ」を付けた。個人商店ながら正装で接客し、身分の違う顧客に分け隔てなく丁寧に接した。やがて総合商店に成長し、地元への寄付にも熱心だった平岡氏は1959年から60年までワンタ市の市長を務め、同市名誉市長にも任命された。
1964年に首都リマへ移り、1968年に松下電器製品の取り扱いを期に本格的に家電量販店としての道を歩みだし、実業家として成功した。
ペルー日系人協会会長などを歴任し、2004年3月死去。
ペルー日本人移住史料館(平岡千代照)。
ペルーは、南米で日本人が最初に移住した国で、サトウキビ耕地での契約労働者として、1899年790人を乗せた「佐倉丸」が横浜からカヤオ港に到着したのが、日本人のペルー移住のはじまり。サトウキビ耕地での労働は厳しく、思うようにお金が貯まらない上、マラリアやチフスなどの風土病で多くの人が命を失うなど過酷なものであった。
ペルー日本人移住史料館(平岡千代照)。
大正時代に発行されたパスポートや日用品、さまざまな商売道具の他、パネルや写真を多用して日本人移民とその子孫たちの歴史を分かりやすく伝えている。
来館者は少なかったが、ペルー人の見学者をみかけた。
日秘文化会館。日本食堂「nakachi」。
ちょうど12時を過ぎた頃だったので、楽しみにしていた日本食堂で和定食を食べた。ペルー人、日系人、日本人で賑わっていた。日系人の老婦人たちが、ナイフ・フォークで日本食を食べていたのが印象的だった。
その後、タクシーに乗り、ミラフローレス区にある、ワカ・プクヤーナ遺跡、天野博物館へ向かった。