平成28年5月12日(木)。
大阪府太子町から狭山池へ向かった。石川にかかる橋を渡り、羽曳野丘陵を横切って西に進むと、狭山池の南東端に着き、北進して西へ進むと、博物館の北側の道路を回って、10時過ぎに狭山池北西端上部にある無料駐車場に着いた。
50台ほどのスペースのある駐車場はほぼ満車であった。堤に出ると、池の周りの周遊路にはウォーキングをする老人が多く見かけられた。
1400年の歴史を刻む日本最古のダム式ため池である狭山池と一体化した親水空間を有する土地開発史専門の博物館で、土木遺産の保存と公開を目的として、2001年に開館した。入場無料。
建物は安藤忠雄によって設計された。水がカーテンのように落ちる仕掛けがある水庭から館内に入る。安藤忠雄のコンクリート打ち放しの味気ない構造物には色彩感がなく飽きてしまった。
古代国家は灌漑用の大溝やため池を造り、耕地の大規模な開発を推進した。1704年(宝永元年)の大和川の付け替えまで、現在の大阪市域に至る80か村、約55,000石を灌漑していた。
狭山池は下端。上部には河内湖があった。西の上町台地北端には難波宮が置かれていた。
河内湖(かわちこ)は、河内国北部にあった湖で、現在は河内平野になっている。
BC6000年頃からBC5000年頃の縄文海進により海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を北限、東大阪市付近を東限として、上町台地と生駒山地の間に河内湾と呼ばれる湾が形成された。
湾の北東岸には淀川が、南岸には大和川が流入し、三角州を形成していた。大和川の流路は現在とは異なり、柏原付近で北へ転じ、現在の長瀬川を流れていた。
『古事記』によると、神武東征で神武天皇は「浪速の渡」(なみはやのわたり)を越えて湾に侵入し楯津(古事記編纂時の「日下の蓼津」)に上陸した。比定される東大阪市日下は生駒山脈の麓であり、当時はほぼ山麓まで海が迫っていたことがうかがえる。
時代が下るにつれ、次第に上町台地から北方へ砂州が伸びていき、弥生後期~古墳時代に、河内湾口は現在の新大阪・江坂付近をわずかに残してほぼ塞がれ、潟湖の河内湖となり、淀川と大和川の水によって、河内湖は淡水化した。河内湖は、淀川・大和川が運ぶ堆積物によってゆっくりと縮小していった。
紀元後も河内湖は残存しており、4・5世紀ごろには草香江(くさかえ)と呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口はかつて湾口だった上町台地から伸びる砂州の北端の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期の仁徳天皇(オオサザキ大王)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため砂州を開削して難波の堀江という排水路を築いた。
その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖は湿地へと変わり縮小していく。江戸時代までに河内湖は深野池(大東市周辺)・新開池(東大阪市の鴻池新田周辺)の2つに分かれた部分のみが水域として残り、1704年の大和川付け替え工事後はこれらの水域も大和川と切り離され、周辺は新田として干拓された
石川や大和川といった水量の豊富な河川から外れる河内国西部の丘陵地帯は、水量に乏しく灌漑に苦労していた地域で、現在も狭山池周辺には大小の溜め池が数多く点在する。
7世紀頃、朝廷によって西除川(天野川)と三津屋川(今熊川)の合流点付近を堰き止め築造されたとされる。
樋や堤体の構造は1988年に開始された改修工事に伴い詳しく調査され、東樋に使用された木材の伐採が616年(推古天皇24年)と判定された年輪年代測定結果がある。また堤体の盛り土が幾層にも積まれ、その1部に植物層を含む層があることが判明し中国や朝鮮から伝わった敷葉工法(しきはこうほう。葉のついた枝を土留めに使う工法)が用いられていることがわかった。
奈良時代(8世紀)の改修では、僧行基が活躍した。また律令国家による改修もあり、狭山池は国家の土地開発政策と深く結びついていた。
鎌倉時代には東大寺を再建した僧重源が改修をおこない、古墳時代の石棺で樋を造った。
近世の改修。尺八樋。 (拡大可)
尾張の入鹿池、讃岐の満濃池も同じ形式を踏襲した。
17世紀初め、豊臣秀頼の命で、片桐且元が改修をおこなった。
慶長の改修でつくられた中樋(重要文化財)と木製枠工(堤の基礎を補強する木組)を移築展示している。
重源が使用した古墳時代の石棺と重源の狭山池改修碑が展示されている。
行基、重源など歴史上の人物が改修工事に関与した点、飛鳥時代の土木遺産が残存しているなど貴重な文化財を展示していた。
このあと重要伝統的建造物群保存地区の富田林寺内町へ向かった。