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Channel: いちご畑よ永遠に
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大阪府富田林市・河南町 富田林寺内町 弘川寺 金山古墳

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富田林寺内町。(旧)杉山家住宅。重文。
平成28512日(木)。
狭山池と博物館を見学後、重伝建地区の富田林寺内町へ向かった。伝建地区の狭い道を走り、西方寺北にある富田林市営東駐車場に着いた。有料だが、無料の20分以内に見学を終えた。
 
富田林寺内町には、江戸時代中期以降に建てられた商家、町家が約40軒、往時の姿そのままに保存・継承され、戦国時代の東西南北の碁盤目状の町割を留めている。
 
杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つで、富田林八人衆の筆頭年寄であり、「わたや」と号した。当初は木綿問屋を営んだが、江戸時代中期に酒造業を始めて大いに栄え、河内酒造業の肝いり役を務めた大商家であった。
 
杉山家住宅は寺内町町家で最古・最大の、17世紀中期の南河内地方農家風建築様式で、屋敷地は一区画(約千坪)を占めた。母屋と東に延びる3室の別座敷、2棟の土蔵(酒蔵と米蔵)と庭園を残す。母屋は4層の大屋根が特徴である。
 
杉山家は、明治の明星派女流歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもある。
露子は、明治15年(1882)、南河内一の大地主・杉山家の長女として生まれ、幼時から古典や漢籍、琴などに親しんだ。明治36年、21歳の時、与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友になり、同社の雑誌「明星」に短歌三首を寄稿する。明治40年、「明星」に旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ「小板橋」は、詩歌を愛する人々の心に長く残ることになった。
与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と称されたが、26歳で父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、社会との交渉を断たれ、長く不幸な結婚生活を送る身となる。後年に「明治美人伝」で紹介され、広く人と作品が知られるようになった。二人の息子をもうけたが、長男は病死、二男は自殺した。
晩年の露子は、富田林の生家で老女中とふたりで暮らし、昭和3478歳の生涯を閉じた。
 
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河内木綿。寺内町センター。展示資料室。
寺内町センターは杉山家住宅の向かい側にある。入場無料。無人で、案内資料に乏しかった。
展示室では、河内名所図会、寺内町古絵図、酒造業や木綿問屋で栄えた江戸時代、明治時代の商家に残る各種資料が展示されている。
 
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河内木綿。寺内町センター。
木綿は江戸時代の河内において最も代表的な作物で、「黒山屋」(田守家)などの木綿商が近江に出向いたと伝えられている。販売品種は、厚地の白木綿が圧倒的に多く、染色糸で縞模様を織り込んだ縞木綿も見受けられた。
 
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木口家住宅。
当家の母屋の遺構は古風な面が多く18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸末期の土蔵2棟と明治の離れ座敷と蔵が残っており、かつての繁栄が偲ばれる。当家は屋号を木綿屋(木綿庄)といい、木綿商を営んでいた。
煙出し櫓(越屋根)は、台所庭に置かれた竈の煙を屋外に出すためのもので、屋根の棟の部分に開口部を設けて、その上に小屋根(越屋根)が作られている。
 
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田守家住宅。
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当家は屋号を「黒山屋」と称し、明治中期頃まで代々木綿商を営んでいた。
母屋は18世紀前半の建築と考えられ、寺内町に現存する町家遺構としては、(旧)杉山家住宅に次いで古い年代の建築である。母屋の表側(堺筋面)は近年外観の復元が施された。母屋の裏方には、内蔵、衣装蔵、米蔵、木綿蔵など大小4棟の土蔵が建ち並ぶ。
母屋西妻には小さいが、黒い魔除けの瓦人形(鍾馗)が見える。
 
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興正寺別院(富田林御坊)。手前から、鼓楼、山門、鐘楼(いずれも重文)が並ぶ。
永禄3年(1560年)に京都・興正寺第16世証秀上人が、応永年間(1394~1412年)に草創された毛人谷(えびたに)御坊を現在地に移建し、別院とした。城之門筋に表門を開き、鐘楼・鼓楼を構え、本堂・客殿・庫裏などを配する。
 
山門は、伏見城の城門と伝わり、馬に跨って通行できる高さを確保したものと言われる。鐘楼は文化7年(1810年)の建築。鼓楼は鐘楼よりも古い18世紀後期の建築で、土蔵造り2階建ての建物。
手前の石碑は「日本の道百選」顕彰碑。
 
弘治元年(1555年)から永禄の初めにかけて、証秀上人は石川の西、富田が芝と呼ぶ河岸段丘の荒芝地に目をつけ、永禄元年(1558年)当時領主であった、安見美作守直政(高屋城主)から青銅銭百貫文を出して申し請け、近隣の村から庄屋株二人づつを呼びよせ(富田林八人衆)、信者達の力によって荒地を開き、四町四面の地域を区画して外側を土居と竹林で囲い、その中央に御坊を建てた。
信者達は各地から移り住み、御坊への志納と町内の負担金以外に租税がかからないため、田地を持たず商いする人などが集まり、大名・領主などの干渉を排して宗教自治自衛都市を確立した。
一向一揆の制圧を目指した織田信長には恭順の意を示し、和平を選択して生き残った。江戸時代に入ると江戸幕府の天領(直轄地)となり、寺内町としての性格は失いつつも、南河内地方における、米、酒造、木綿、菜種油、木材などの商品作物の交易・流通の中心地、在郷町として近代まで大きく栄えた。
 
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弘川寺。南河内郡河南町。
西行法師終焉の地として知られる弘川寺は、名峰葛城山の麓にあり、寺の周辺は桜の名所として有名で「大阪みどりの百選」に選ばれている。
天智天皇四年(665)、役小角が自ら彫った薬師如来を本尊として開創したという。
文治4年(1188年)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願している。翌、文治5年(1189年)には空寂を慕って西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。
 
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西行堂。
江戸時代に入り僧侶で歌人の似雲法師が、享保171732)年に西行の墓と考えられる古墳を発見し、その山の斜面に西行堂を建立し、自らもここに没した。
 
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西行墳。
「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と詠んだ西行の墓とされる。
西行堂から数分山道を登った頂上台地にある。
 
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金山古墳。南河内郡河南町。国史跡。手前が南丘、奥が北丘。
幹線道路横に、史跡金山古墳公園の駐車場がある。
瓢形双円墳という大小2基の円墳を連接した形のもので、全国的に珍しく、他には東大阪市の夫婦塚古墳、瓢箪山古墳が知られている。また、朝鮮の新羅の都であった慶州に多く見られることから、渡来人との関係も考えられている。
出土した土器や、石室・石棺の形から、6世紀末から7世紀初頭の築造と考えられている。
墳丘の長さ85.8m、周濠を含んだ総長約104m、南丘直径55.4m・高さ9.4m、北丘直径38.6m・高さ6.8mの双円墳で、北丘は2段に、南丘は3段に築かれており、周囲には周濠がめぐらされている。
 
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金山古墳。右が南丘、左が北丘。
 
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金山古墳。北丘の横穴式石室。
石室内の玄室と羨道には、凝灰岩をくり抜いて作られた家形石棺が2個置かれている。
石室の全長は16m、そのうち玄室は長さ3.8m・幅2.48m高さ2.84m、羨道は長さ6.26m・幅1.72m・高さは1.94mである。
石室や石棺の中は盗掘にあっていたが、発掘調査で銀環、瑠璃玉、鉄製帯金具、鉄刀などが出土した。
 
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金山古墳。南丘からの北丘方向への展望。
 
このあと、千早赤阪村へ向かった。

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