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大阪府千早赤阪村、河内長野市、貝塚市 下赤坂城跡 上赤坂城跡 観心寺 水間寺

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下赤坂城跡。大阪府南河内郡千早赤阪村。国史跡。
平成28512日(木)。
河南町から千早赤阪村へ向かい、まず下赤阪城跡を目指した。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけ楠木正成が活躍した城の一つである。千早城跡は2000年頃に金剛山登山のおりに見学した。
千早赤阪中学校の一帯が下赤阪城跡で、中学校敷地内に本丸跡がある。
 
幹線道路から中学校へ車道を登ると、道が分からなくなり、近くにいた教員らしい人に尋ねると、校舎の間に上へ抜ける道がありますとのことで、確かに一段上の車道に登ることができ、本丸跡に立つ石碑が残る小丘近くに駐車した。
 
下赤阪城は北方に細長く突出した舌状台地の先端部を利用した平山城で、元弘の乱の主要な舞台となった。元弘元年(1331年)、楠木正成はこの城で挙兵した。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れず、正成は城を脱出潜伏した。翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城・千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる。
 
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下赤坂城址に広がる棚田。日本の棚田百選にも選ばれた美しい棚田の風景が広がる。
観光客が農作業の人に、水入れはいつ頃になるか尋ねていた。
 
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楠木城跡
(上赤坂城跡)。登城口。国史跡。
下赤阪城跡の南東にあるが、アクセスは、分かりづらい。広域農道に入り、学校給食センターで職員に尋ね、枝道を数分北へ走ったところに駐車スペースがあると教えられた。
 
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楠木城跡。案内図。
楠木正成の本城である。千早赤阪村のほぼ中央部北側、金剛山地から北方向へ延びてくる尾根上に位置している。周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。
 
道は明確で、登城口から一の木戸・四の木戸を経て、二の丸から西方向に曲がって20分ほどで、本丸跡に着いた。広大な城域である。展望がてらハイキング対象として登る人もいるようだ。
 
元弘2年(1332年)の楠木正成再挙兵後、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いた当城が楠木氏の本城となり、幕府軍に対した。翌元弘3年(1333年)、上赤坂城も落城し、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、幕府軍を苦しめた。
 
楠木城は14 16世紀にかけて使用された城郭である城の廃絶は戦国時代末期の16世紀末まで下る。城跡は城の前後に複数の堀切を設けた山城で、等高線に沿った横堀と曲輪が認められ、主郭には横堀や竪堀も設けている。戦国期に改修を受けたものだと考えられる。
 
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楠木城跡。そろばん橋。
城の北側から本丸、二の丸を目指して登りはじめると二の丸に到達するまでに、一の木戸から四の木戸という伝承の残る箇所を通過することになる。三の木戸と四の木戸の間には、そろばん橋といわれる竪掘群がある。そろばん橋と対応するように南側、背後に大きな竪掘を造り、楠木城で完結する山城への改修が行われた。
 
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楠木城跡。本丸跡。
発掘調査により、14世紀前半から16世紀後半にかけて複数の建物が何度も建て直されたことが分かり、輸入陶磁器なども出土している。
 
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楠木城跡。本丸跡からの眺望。北には楠木正成誕生地などがある。
 
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観心寺。河内長野市。金堂。国宝。
高野山真言宗の寺院で、遺跡本山である。
寺伝では、大宝元年(701年)、役小角が開創、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る。なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。

観心寺の実質的な開基は、空海の高弟である実恵で、天長4年(827年)、実恵および弟子の真紹が伽藍の造営を始めたという。鎌倉時代中期から大覚寺統に属し、南北朝時代には南朝の勅願寺となった。観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。
室町時代以降は、管領畠山氏や豊臣氏の庇護を受けて栄えた。

国宝の金堂は平安時代初期の建物で、外陣は南北朝時代に後醍醐天皇が楠木正成を奉行として増築したものである。建築様式は和様、禅宗様、大仏様の折衷様式。
 
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建掛塔(たてかけとう)。重文。
普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だけが建てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、そのままになっているという。
 
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後村上天皇檜尾陵。
正平14年(1359年)からしばらく、塔頭総持院が後村上天皇の行在所となり、正平23年没後、遺詔により檜尾陵が造営された。
 
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楠木正成首塚。
湊川で討ち死にした正成の首は当寺に届けられ、首塚に祀られている。
 
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北斗七星星塚。第
7番破軍星。
1番の貪狼星(とうろうしょう)から金堂を囲むように北斗七星の形で7つの星塚が配置されている。
1630分頃になり、岸和田市の道の駅「愛彩ランド」へ移動し、車中泊。
 
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水間観音駅。水間鉄道。国登録有形文化財。
平成28512日(木)。
大正151926)年に建築された鉄筋コンクリート造の駅舎。この駅舎は水間寺への入り口であることにちなみ寺院風のものとなっており、旧名称の水間駅から2009年に改称された。
 
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水間寺。貝塚市。三重塔と本堂。
天台宗別格本山の寺。水間観音の通称で知られる。本尊は聖観世音菩薩。
早朝にもかかわらず、参拝する人がちらほらいる。
寺伝によれば行基の開創という。天正131585)年に羽柴秀吉軍に攻められ、堂塔のほとんどを焼失。江戸時代には岸和田藩主岡部氏の庇護により復興したが、天明41784)年に焼失、文化81811)年に本堂が再建され、その後現在の堂宇が建て替えられた。
井原西鶴の「日本永代蔵」の第1話「初午は乗て来る仕合」に「泉州水間寺利生の銭」と記されたことで全国的に知られるようになった。1925年(大正14年)には参拝客を運ぶための水間鉄道が開通している。
 
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水間寺。降臨の滝。
病床の聖武天皇の夢に現れた観音菩薩を求め、行基が2つの川が合流する「水間」にやってくると観音の化身である16人の童子に遭遇、誘われて滝に向かうと竜神が現れ聖観音像を授けられたと伝わっている。その滝は、現在の本堂の裏を流れる小川にあったという。
 
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水間寺。「聖観音菩薩出現の滝」説明板。
 
このあと、泉佐野市の荘園遺跡「日根荘」見学のため、泉佐野市役所近くの「歴史館いずみさの」へ向かった。

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