恒春のバスターミナル前から南門を見る。
2016年12月2日(金)。
本日は墾丁の宿を出て、北上。恒春北の車城から石門古戦場と四重渓温泉へ行き、塀東市で宿泊する行程。
旅行前からこの地区の移動手段をどうするか迷った。バス時刻が歩き方に記してあり、実際その通りだと思うが、四重渓温泉への往復は便数は多い。しかし、石門古戦場へは少なく、四重渓温泉と連動させるのは困難。原付のレンタルかタクシーが現実的。
車城は田舎町なので、レンタル屋があるかどうか分からない。恒春は都会なので、レンタル屋は多いだろうと、とりあえず、恒春まで行くことにした。
墾丁からバスに乗り、恒春のバスターミナルに8時頃到着。案内所でバスの時刻を尋ね、ほぼ事前情報と同じことを確認し、レンタルバイクでないと無理と判断。
南西の裏通りにレンタル屋を見つけたが、交渉が成り立たず退散。何となく、南門の方へ向かい、通り過ぎたところに、レンタル屋を発見。
原付のレンタルには翻訳文が必要なのだが、一応無視して交渉する。通常の目的地は市街地や周辺を目的とするのだろうが、「石門・四重渓へ行きたい」と言ったら、日本語の分かる高齢の隠居に、「危ないから無理だ」と言われ、諦めて、車城へ行くことにした。
恒春。南門。
清朝は、欽差大臣沈葆を派遣して台湾を治めさせた。清の同治年代に恒春半島で牡丹社事件があった際、沈葆はここに城壁を築くよう朝廷に奏請し、海上防御を強化するため、1875年恒春古城が建設された。古城には城壁、東西南北の四つの城門、城門の上の砲台、城壁の外の溝を設置された。城璧の周囲長は2933m、璧厚は6.7m、外壁高4.8mであった。門の基部長は23m、高さは5.7m。
恒春は台湾で唯一軍事目的のために造られた防御都市であり、台湾で最も当時の状態が保存された遺跡都市でもある。
恒春。南門。
1901年に台湾総督府は恒春地方の地場産業としてサイザル麻(瓊麻)生産を導入し、それにより荒縄、麻袋などの生活用品が作られ、日本統治時代の経済上の重要な位置を占め、かつては「東洋の光」の名声を博したという。
説明文によれば、門中央を通って、恒春と南湾(墾丁方面)との間に軌道が設けられており、貨物輸送により、界隈は繁栄していたとある。
恒春。南門。
2006年12月26日、バシー海峡を震源とする大地震により一部が損傷し、修復された。
車城。バス停の時刻表。
恒春のバスターミナルへ戻り、20分余りの乗車ののち、9時30分ごろ車城に到着。バスから降りた途端、白タクの60歳ぐらいの男に「四重渓温泉まで200元」という勧誘を受けたが、あとでと断った。
バス停の時刻表には石門行き、四重渓行きの時刻が掲載されている。DRTSとは前日までに予約すれば運行してくれる便だと記憶していた。
車城の街といっても、高雄・墾丁間の幹線道路に沿って店が並んでいるだけの街だった。バス停中心に左右数百m歩いてみたが、レンタル屋は見つからなかった。仕方ないので、白タクでも使うかと、バス停に戻ると、白タクはもういない。
腹が減ったので、バス停前のよろず屋に入り、菓子を買った。料金を払うときに、ふと観光広告を見ると、レンタルバイクの文字が見えた。店の親父にどこかと尋ねると、紙切れに図示してくれた。
主要交差点から四重渓方面へ50mほど入ったところに、レンタルバイク屋があった。
店に入ると、女性がいて、中国語翻訳文があるかと聞いてきたので、持っていないと答えると困った顔をしたが、貸してくれることになった。免許を出すとコピーして、OK。料金は400元。
原付50CCを運転するのは数年ぶりなので、操作方法をあれこれ尋ねるうちに、料金を渡すことを忘れて10時ごろ出発。後日、スマホに女性から料金の件と思われる電話が入っていたことに気が付いた。
旧「西郷都督遺績紀念碑」がある丘への入口。
車城から四重渓温泉を経て、30分弱で、記念碑入口に到着。
西郷都督とは西郷隆盛の弟西郷従道のことで、明治7年(1874年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として、日本初の海外出兵において司令官として日本軍を指揮した。
台湾出兵は1874年5月から6月にかけて行われた日本の軍事行動で、1871年(明治4年)10月、台湾南部に漂着した宮古島の島民のうち、54人が現地の原住民族パイワン族により殺害された事件をもとに、日本軍がパイワン族を制圧し、日本軍が行った最初の海外派兵である。牡丹社事件、征台の役ともよばれる。
当時日本は明治維新直後で、国内の不満や反乱を抑えるために、そのはけ口として海外進出を図ろうとする機運が強く、征韓論が決裂した後も征台論が頭をもたげつつあった。明治政府はそうした目的を達成するために、牡丹社事件を絶好の口実として利用した。
この台湾出兵には台湾領有の他、明治政府にはもう一つのねらいがあった。琉球は江戸時代から薩摩藩に実質的に支配されていたとはいえ、維新後も、琉球藩として明治政府、薩摩藩と清への両属状態であった。明治政府はこの事件を琉球を日本に帰属させる絶好の機会ととらえ、1875年に琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令、1879年の琉球処分により、日本へ編入した。
記念碑入口から車城・石門間の道路方向。
広いスペースがある。
入口の案内板。
宮古島島民66人は誤って高士仏社に入った。
石門での戦いは1873年5月22日。
1935年日本は石門古戦場と亀山本営を史跡に指定し、翌1936年西郷都督遺績紀念碑を建立した。
同年、征蕃役戦死病没忠魂碑を建立。
記念碑は入口階段を登り、さらに同距離の階段を登った上にある。入口から5分程度。
階段の途中から眺める石門古戦場の上部。石門天険とよばれる。
二つの岩山が狭く接している地点が石門とよばれる。車城から牡丹社へ向かうルート上にあり、原住民にとって防御しやすい地点であり、日本軍との古戦場である。
旧「西郷都督遺績紀念碑」。
1953年、屏東県政府によって「澄清海宇還我河山」と書き換えられたが、現在は文字が削除されている。
牡丹社事件と石門古戦場説明板から。
実線は日本軍の進軍方向3方面を表す。八瑤湾は遭難船が漂着した海岸。五十四番名墓は宮古島島民の墓。
旧「西郷都督遺績紀念碑」と石門古戦場。
旧「西郷都督遺績紀念碑」と石門古戦場。
左の征蕃役戦死病没忠魂碑は上部が破壊され、台座のみ残る。
記念碑の丘から車城方面の風景。
南シナ海の方向。中央奥が日本軍本営のあった亀山と思われる。右の山麓に四重渓温泉がある。
丘を下り、牡丹社の方向へ進むと、道路左に案内図があった。
石門古戦場歩道ガイド図。 (拡大可)
左下が記念碑。中央が「石門山」。標高384m。登山道は左側が電波台歩道、中央が石門山歩道。
この地点は電波台歩道入口。山頂まで、電波台歩道は95分、石門山歩道は71分。
すぐ先に、石門の役に関する情報センターがある。