石門峡。石門古戦場跡。
2016年12月2日(金)。
旧「西郷都督遺績紀念碑」のある公園から数百m奥へ進むと、石門峡の全景が見える地点に達した。道路奥に牡丹社への入口を示すアーチが見えている。
琉球大学教育学部紀要第72・73集に「Sinvaudjanから見た牡丹社事件」(高加馨著、里井洋一訳、2008)という論考があるので、以下引用。高加馨さんはパイワン族SinvaudjanI(牡丹社)出身で牡丹社事件の研究をしている研究者である。
石門峡はパイワン族にはMacacukesとよばれる。両側の山が高く険しい。谷底の四重渓の河道は比較的上流では狭まりそのため水流は比較的急である。険しい山は登り難く、深い川は渡りにくい。族中の勇士が石門峡の北側虱目山上の高い地点を制し、たやすく日本軍の行動を監視することができた。良好な地形を擁しているため優勢で、極めて守り易く攻めるには難しかった。故にこの地は石門天険と言われている。
現在峡谷の中に幹線道路が通じている。最近、公路局が路面を広げ、山壁を削ろうとしたが、その後協議によって。公路局は川に沿って建路することに決定した。
現在は虱目山の山上にはテレビ中継施設が築かれ、四重渓の上流には牡丹ダムが建設されたので、急流はなくなり、静かに石門峡谷を川は流れている。
牡丹社への入口を示すアーチ。
原住民族の村の入口には通常このようなアーチが架けられている。
虱目山への登山口にあたり、すぐ左上に牡丹社事件の資料館(情報センター)がある。タクシーは日本人夫婦がチャーターしており、1日4000元とのこと。
アーチから見る石門古戦場。下流方向。
虱目山(石門山)への登山口。
山頂まで約70分。予定外であり、汗だくになるのは必至なので、登らなかった。山頂からの景色は良好らしい。
牡丹社事件の資料館(情報センター)。
無人、無料。展示写真が多い。
石門の役位置図。 (拡大可)
琉球漂着民が立ち寄ったパイワン族の村はKuskus(高士仏社)である。
1874年5月7日、日本軍は初め射寮に到着し上陸駐留した。日本軍の兵力は約3600名であった。
日本軍が牡丹社を攻撃する理由は、蕃社十八社中規模最大で最も精桿な牡丹社が、日本軍に抵抗する姿勢を堅持しつづけたことにある。日本軍は、琉球漂流民を殺害したのは高士仏社人であることを知っていたが、牡丹社人も共犯者だとし、牡丹社と高士仏社が日本軍進攻の主要対象となった。
5月18日、日本兵は四重渓での偵察の時5.6人が草むらで待ち伏せていた原住民に襲撃され、日本軍は敗退した。原住民は日本兵の首を取り、たち去った。20日、三重渓で、断片的な戦闘が行われ、原住民が1人死亡し、日本兵が2人負傷した。21日、原住民は四重渓にあって日本軍捜索隊12人を攻撃、日本軍歩兵第19隊が支援におもむき、牡丹社人と日本軍が交戦、夕暮れになったので日本軍は退却した。
5月22日、佐久間佐馬太が150人の日本軍を率い、再度石門に攻めてきた。石門は牡丹社の入り口であり、天然の要害で、守るに易く、攻めるに難しく、原住民は岸壁に隠れて抵抗した。戦いは激烈をきわめ、その地には道は無く、戦闘は四重渓の中でおこなわれ、1時間余に渡って銃撃戦が行われ、原住民は負傷者を運び出し、死体を棄て、その首の多くは日本軍に斬られ、回営地に運ばれた。
牡丹社頭目Aruqu父子やその他の原住民16人はともに戦死した。日本軍は戦死6人、負傷20人であった。これが有名な「石門之役」である。
6月1日、日本軍は西郷都督と谷・赤松両参軍、佐久間・福島・樺山少佐など各隊の将校が石門、竹社、楓港の3方面からの総攻撃を行った。中央の本隊は西郷従道、佐久間佐馬太。右翼は赤松則良、左翼は谷干城、樺山資紀とし、三方面から牡丹社に進撃した。兵員総数は1,300余人であった。
左翼は楓港渓にそって東へ進軍、渓流を渡り、険しい坂を登り、原住民の狙撃を受け、士兵2人、案内1人が負傷した。女仍社制圧後、6月3日牡丹社の背面を取り巻き攻撃した。
中央部隊は佐久間が指揮をとり、石門一帯の険路を通って日本軍が牡丹社に入った時には、部落の中の人はすでに避難していた。少数の牡丹社人が林に身を隠し銃を発射した。日本軍は反撃し、部落の家屋を全て焼き払ってしまった。
右翼は赤松則良が指揮をとり、竹社から高士仏社へ進攻した。部落に入ろうとした時、原住民の待ち伏せ銃撃にあい、三人が戦死、二人が負傷したい。高士仏社原住民はすべて家を離れていた。日本軍は家屋敷を焼き払った。
6月3日、日本軍は牡丹社で合流、但し原住民はすでに逃げ去り、部落を焼いたほか何も得るものは無かった。日本軍は部分的に軍を駐留させた他は全て翌日には亀山東北の統哺に移った。
日本軍は牡丹社の要衝、石門内の隻渓口に兵を派遣し守らせ、原住民の糧食を断つともに、再び人を派遣してその動静を探らせた。
この戦いの後、牡丹社・高士仏社・女仍社はなお出兵し抵抗を続けたが、7月1日、3社人は保力庄で西郷従道と面会し、中に立った潘文杰の調停により、投降し、事件は終結した。
西郷都督遺績紀念碑。
石門古戦場。
Aruquが率いる牡丹社部落内の勇士はみんな勇気をふるって敵に抵抗し、おそれず危険な山壁の上によじ登り、もっともよい攻撃位置を取得した。族人の銃は実際とても貧弱で、そのため弓矢、短刀を使って接近戦で応戦した。しばらくの間は族人が占領した地理的優越によって、日本軍に抵抗することができた。日本軍の兵力は多く、武器においても優勢で、族人は後退せざるをえなかった。山の中に撤退し、頭目Aruqu父子はこの時の戦闘で戦死した。
上陸地。車城湾。
亀山。日本軍本営。現在、国立海洋生物博物館がある付近。
登陸紀念碑。
1907年民政長官後藤新平、石門古戦場視察。
西郷従道および蕃社琅嶠十八社会合。
石門の役。藤島武二画とあるが不明。
パイワン族牡丹社村民。
当時の社会環境と先住民の風俗習慣から看た場合、わけもなく部落の領地に進入してきた見知らぬ人は侵入者と見なされ、必ず部落法の制裁を受けることになっていた。遭難その後部落の領地に誤って入ってしまった琉球人は人数が多かったために部落の防衛を圧迫し、ついには族人との間に口論誤解が生まれ、ついには残念な事態を生み出した。この悲劇的なことは確かに人に遺憾と思わせるとは言うものの、現代的な観点で当時の行為を断罪すべきではない。
パイワン族高士仏社村民・住居。
1898年9月日本の人類学者鳥居龍蔵の調査によれば牡丹社一帯の風俗は、1874年当時の状況とほとんど変わらないという。男子はある種の弁髪に、腰には紺色の布を巻き、遠くに行く時には肩掛けを着けている。女子は髪を左右に分け、残りの髪は頭の上に巻き付け、漢人の古着を着けている。住居は一見レンガのようだがほんとうは泥土を日乾しこれを壁のように積重ねて四辺を造っており、茅で屋根を葺き、このような家が連立して山の上にある。
パイワン族跳舞。
潘文杰。
琅嶠十八社大頭目・潘文杰(1853~1905)。
1874年日本軍が牡丹社前に進攻する頃に、大頭目を継承した。日本軍が上陸した時、彼は今後の時勢を考え、すぐに投降帰順の意志を表し、日本に対しては好意を示し、その上、牡丹・高士仏社などの未投降部落動静の日本軍偵察を助けた。
石門の役後、牡丹社は遊撃戦を続行したため、日本側はくりかえし潘文杰に調停工作を頼み、引き継いで部落の指導者と日本軍が協議の結果、戦闘が終了した。
西郷従道は謝意を表し、潘文杰に褒状・洋銃・刀剣を贈った。その後、日本と部落の架け橋となり、彼の族人のために「恒春国語伝習所」設立に努力し、彼の族人に教育を受けさせた。日本は潘文杰に功ありと認め1897年「勲六等瑞宝章」を与えた。1903年日本は潘文杰を卓著と表現し、恒春庁参事に任命した。