紀南ツアーデザインセンター。
2017年2月2日(木)。
松本峠まで往復したのち、熊野市歴史民俗資料館へ向かおうとして、木曜日が休館であることに気づき、このあと、紀南ツアーデザインセンターと産田神社を見学した。
紀南ツアーデザインセンターは三重県紀南地域観光のビジターセンターで、明治時代に木本(現熊野市)を代表する林業家の一人であった初代奥川吉三郎氏が、明治20年頃に私邸として建築した和風建築を四代目奥川吉三郎氏が近年、地域に寄贈した建物である。
紀南ツアーデザインセンターは松本峠南西側登り口近くの狭い路地にあり、北側に2台分の駐車スペースがある。
奥川吉三郎邸資料室。
土間の左奥に資料室がある。
初代奥川吉三郎(天保3年1832~大正元年1912)の記念碑。
初代奥川吉三郎と明治元年のマグロ騒動など。 (拡大可)
初代奥川吉三郎は江戸時代末期に分家して樽の製造業、家業であった酒の醸造業を営み、資金を作った。さらに、魚の仲買を営み、古泊問屋と称した。
明治元年に古泊浦(今の磯崎)でマグロの大漁があり、多くの利益を得た。木本の漁師たちは入会い漁場という理由で古泊の漁師たちに歩合を要求し、古泊問屋に押し掛けたが、奥川吉三郎は古泊の漁師を苦しめられないと断った。
木本の漁師たちは代官所へ訴願したが敗訴となり、代官所を襲った。代官所は事件を鎮めるため、民衆を扇動したという罪を奥川吉三郎に着せようとしたが、奥川は無実を主張したため、代官所も騒動の主謀者に刑を課し、奥川は冤罪であると言明するに至った。
しかし、騒動の主謀者である木本町民は、厳罰を免れ、代わりに松本峠の石畳を普請したという。
奥川吉三郎は莫大な資金をもとに、植林業を起こし、南牟婁郡一の山林王となった。
3代奥川吉三郎と伊賀上野城の再建への木材提供についての資料。
3代奥川吉三郎と伊賀上野城の再建への木材提供についての資料。
16時近くになり、熊野市街地南西にある産田(うぶた)神社へ向かった。
産田神社。入口。
産田神社は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突命(カグツチノミコト)をこの地で生んだことに由来して"産田"の名がついたといわれている。「日本書紀」(神代巻上)一書には、伊奘冉尊が火の神である軻遇突智を産んだ時に焼かれて死に、紀伊国の熊野の有馬村に埋葬されたと記されており、また、花の窟神社は、亡くなった伊奘冉尊の墓所であるとされる。
弥生時代からの古い神域で、近くには弥生時代の集落である津の森遺跡がある。
南東の大駐車場に駐車した。コミュニティバスの停留所があり、横にさんま寿司発祥の地という木標、案内板がある。
産田神社の案内板。
伊弉冉尊(イザナミノミコト)の神々の母としての神話から、太古から安産と子育てを祈願した祭礼が執り行われている。
神事の最後、直会の際に、汁かけ米飯、骨付きさんま寿司、赤和え(アカイ〈生魚の唐辛子和え〉)、神酒からなる「奉飯」と呼ばれる膳が振舞われる。
「神籬(ひもろぎ)」の説明。参篭殿。 (拡大可)
古代には神社に建物がなく、「ひもろぎ」と呼ばれる石で囲んだ祀り場(祭祀台)へしめ縄を張り神様を招いた。この神社の左右にある石の台がそれで、日本でも数ケ所しか残っていない大変珍しいものである。
産田神社。本殿。1929年(昭和4年)建立。
白石が敷詰められた本殿前には、用意されている草履に履き替えて入場することになっている。
産田神社。本殿。
伊弉冉尊は多くの神々の母であることから、古くより安産や子授け、子育てを祈願し、信仰されている。安産祈願の際、目を閉じて拾った石が丸いと女子、細長いと男子が産まれるといわれる。
無事に子供が産まれると、お宮参りの際に、七里御浜で白石を拾い、元の石と一緒にここに返すという。
産田神社。本殿左側の神籬(ひもろぎ)。
人頭大の石を5つ直線に並べ、その周囲を一回り小さな石で方形に囲ったもので、社殿を囲む瑞垣の両脇に2基配置されている。正面向かって左側の保存状態は良好だが、右側は石の間から木が育ち、形状が崩れている。
16時30分ごろになり、道の駅「七里御浜」へ向かった。