田平子峠刑場跡。国史跡。
2017年2月3日(金)。三重県熊野市紀和町。
丸山千枚田見学のあと、国史跡赤木城跡へ向かった。ナビ上では北約2㎞だったのだが、途中で赤木城跡は西への道標があったのでそれに従い、狭い県道を北上すると、突然道路左に「田平子峠刑場跡」という木標にある場所に着いた。赤木城跡とワンセットの史跡であり、見学したかったが場所がよく分からなかったので、好都合だった。
赤木城跡と田平子峠刑場跡は当時豊臣秀吉配下の武将・藤堂高虎と紀伊国牟婁郡東部および大和国北山地方に起きた北山一揆に関連する史跡である。
赤木城を築城した藤堂高虎(1556~1630)は天正4年(1576年)に羽柴秀吉の弟・秀長に300石で仕えた。天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、紀伊国粉河に5000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられ、北山代官として北山材の切り出しを行った。高虎は天正13年ごろに当地に入り、文禄4年(1595)四国伊予三郡を与えられるまでの11年間在住したという記録がある。当時畿内は建築ブームだったため、熊野の良質の木材は高く売れたという。
北山一揆とは、天正・慶長年間に都合二度蜂起した奥熊野(紀伊国牟婁郡東部)の地侍を中心とした一揆である。天正14年(1586年)8月、奥熊野の地侍たちが蜂起した。紀伊の領主であった羽柴秀長は、8月28日自ら紀伊へ出陣して討伐に当たり、9月23日までにはほぼ制圧した。一揆衆は降伏して赦免を乞うたが、秀長はこれを許さず徹底的に成敗すべく翌年の出兵を命じる。
天正16年(1588年)に一揆鎮圧の拠点として藤堂高虎が赤木城を築城、翌17年(1589年)5月には高虎によって、一揆の首謀者多数が田平子峠で斬首された。
慶長19年(1614年)12月、紀州藩主浅野長晟の統治に不満を持つ北山の地侍・山伏らが、大坂冬の陣に際して、浅野氏の兵力が手薄になったのを機に蜂起したが、一揆勢は敗退した。新宮城主浅野忠吉は奥熊野へ侵攻し、慶長20年(1615年)1月には残党狩りが行われ、田平子峠で363名が処刑された。
田平子峠刑場跡には江戸時代後期まで獄門柱の穴が残っていたが、現在では遺構はなく、1968年に建立された供養塔が立っている。
脇の石碑裏には、歌い継がれてきたという「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」の歌が記され、処断の厳しさを今に伝えている。
峠から北東へ800mほど下ると、赤木城跡の駐車場へ着く。
赤木城と周辺の歴史。赤木城跡入口。
城の麓には熊野本宮・吉野と海岸部を結ぶ十津川街道、北山街道が通る交通の要衝であった。鉱山・森林資源が豊富で刀鍛冶も盛んであった。
赤木城跡入口。
東郭下から北の主郭方向を見上げる。主郭までの比高は約30m。
赤木城は藤堂高虎によって天正16年(1588年)頃築城された。築城当時の姿を留める城跡は大変貴重である。
駐車場内のトイレ入口に懇切丁寧な赤木城跡説明リーフレットのカラーコピーが置いてあった。ネットでも、リーフレットは見ることができる。
赤木城の縄張り図。
この城の特徴は中世と近世の築城法を併用した過渡期である織豊期の平山城である。主郭を中心に三方の尾根を利用した逆Y字型の郭配置は中世山城の様相を引き継ぐ一方で、高く積まれた石垣や発達した虎口などに近世城郭の要素も見受けられる。
東郭と西郭の間の谷下平地には日常の生活の場である南郭が設けられていた。
赤木城跡。東郭ⅠとⅡの間の門跡へ向かう。
四脚門があったと推定され、門の手前は攻撃を防ぐため、坂が急に険しくなっている。
赤木城跡。東郭Ⅱから主郭と西郭。
石垣は野面乱層積みで反りがなく、主郭の四隅は算木積みと横矢掛りの工法を用いている。
赤木城跡。東郭Ⅰから主郭。
朝もやに浮かぶ城跡は幻想的で、天空の城ともいわれている。
赤木城跡。主郭下の虎口。
通路を折り曲げた上下二重の虎口がある。
赤木城跡。主郭下の虎口。
大きな石を用いて立派に見せている。
赤木城跡。主郭。枡形虎口の門跡。
赤木城跡。主郭。
礎石から。他の郭よりも立派な建物が建っていたと推定される。
主郭から四方を見渡しても、単なる山間部で、これほど立派な城を作る理由は想像できなかった。中近世の交通や資源の状況は現代とはかけ離れている。
赤木城跡。縄張り図。
主郭の石壁の随所に横矢掛かりの仕掛けが用いられている。
赤木城跡。主郭の説明板。
赤木城跡。赤木城の守り。
赤木城跡。主郭の横矢掛かり。
赤木城跡。西郭から主郭の方向。
赤木城跡。西郭。説明板。
赤木城跡。西郭Ⅰから西郭Ⅱを見下ろす。
左下は南郭。
赤木城跡。南郭。
3段に造成されていた。左上には西郭から下る道が見える。
30分ほど見学して、11時頃になった。熊野古道の風伝峠道・通り峠道のウォーキングを省略したため時間に余裕ができた。
三重県熊野市紀和町木津呂の絶景を見る山歩きは翌日に予定していたが、正午には登山開始できそうだったので、ここから遠くもない新宮市熊野川町嶋津へ向かった。