Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

三重県東紀州 嶋津観光協会 熊野紀和鉱山資料館

$
0
0
イメージ 1
自称・日本一小さな観光協会「嶋津観光協会」の平野さん。
201723日(金)。新宮市熊野川町嶋津。
11時ごろ赤木城跡の見学を終え、紀和町木津呂の絶景を見下ろすため、熊野市紀和町との境にある和歌山県新宮市熊野川町嶋津へ向かった。途中、入鹿小学校、入鹿中学校の山間部とは思えない洒脱な校舎に感銘を覚えながら、紀和町の中心である板屋から国道へ出た。
トンネルを越えて瀞大橋を渡り、すぐに嶋津への道標から狭い道へ入り、道端の水を補給させてもらったあと、1130分ごろ、集落の終端と登山口に到着。100m先の河原に駐車した。
 
12時過ぎに、登山口へ向かうと、自称・日本一小さな観光協会「嶋津観光協会」の平野さんが家から出てきた。数か月前に中日新聞夕刊で平野さんと嶋津から見る木津呂の絶景が紹介されたので知ったこと、ネットからヤマレコの地図や登山写真をコピーして持参したことを話した。
すると、雲海看板の近くに第1絶景ポイントがあり、その先に第2絶景ポイントがあると教えてくれた。
 
イメージ 2
三重県熊野市紀和町木津呂の風景。
ネットで見た写真を反芻しながら、尾根の取り付きから180度向きを変えて尾根を登っていき、雲海看板へ着いた。この近くかと思って、木津呂へ斜面を下り、左右を探し、下へ下ったが樹木が多く、対岸の木津呂の風景は隠れたままだった。付近を1時間近く歩きまわっても、急斜面に手こずるだけになり、翌日も時間があるので、下山することにした。帰るときに、転回点で河童の看板に釣られて、逆方向の木津呂側に下りてしまった。こちら側にも廃屋敷群の石垣が残っていたのを目撃できたのは、つまらない収穫だった。
15時ごろ下山して、平野さんに状況を話すと、雲海看板から50m先に第1絶景ポイントへの入口があるということだった。あと少し先に進んでいれば、到達できたかも知れないと悔しかったが仕方がない。明日も晴天なので、「登り直します」と告げて、駐車した河原へ向かった。

翌日は、12時過ぎに登山を開始し、ほぼ満足できる絶景写真を撮影することができた。
 
国道を戻り、板屋の熊野紀和鉱山資料館へ向かった。
 
イメージ 3
紀和町「鉱山の歴史」。熊野紀和鉱山資料館。      (拡大可)
熊野市に合併した旧紀和町はかつては国内屈指の銅鉱山を持つ鉱山の町として知られていた。その歴史は古く、奈良時代には東大寺の大仏造立のためにここから多くの銅が献上されたと言われている。古い坑道の石の壁に南北朝時代の年号「延元二」の文字が刻まれており、この時代には採鉱活動が盛んだったことを示している。江戸時代に入って銅鉱石の採鉱が増え、銅を精錬する「熊野床」と呼ばれる精錬技術も開発された。
 
イメージ 4
石原産業・紀州鉱山の時代。熊野紀和鉱山資料館。    (拡大可)
昭和91934)年、石原産業が鉱山開発に乗りだし、最新技術を導入して採鉱量を増やし、年間2,000トン以上の銅を産出し、日本国内の銅鉱山の中で6~7位の銅生産量となった。紀和町の主要産業として大きく貢献した銅鉱山だったが、昭和53年(1978)に閉山し、今は多くの坑道跡や選鉱場跡が最盛期の鉱山町の面影を伝えている。
 
旧紀和町は町制40周年記念事業として鉱山資料館を建設、平成7年(1995)にオープンした。
資料館内には江戸時代の採掘現場とそこで仕事をした人びとの様子が、人形や模型を使ってリアルに再現されている。
 
鉱山資料館は工事中なのか、建物全面がシートに覆われていたが、開館していた。受付に係員がいなかったので、チーンとベルを叩くと、係員がやってきた。学芸員なのか、饒舌であった。建物が立派ですねと、褒めると、旧紀和町は熊野市との合併前に、資料館、小中学校校舎の建設費に潤沢な資金を投じたとのことだった。
ロビー横には赤木城跡の企画展示があった。2階には戦前までの歴史、1階には戦後の歴史が紹介されている。2階には石原産業の創業者石原広一郎の貴賓室があるが、現在は閉鎖されている。
 
イメージ 5
紀州鉱山。熊野紀和鉱山資料館。
紀州鉱山は20112月にマレーシアのバトゥパハ郊外スリメダン鉄山跡を見学したのち知り、大いなる興味を持っていた。
石原広一郎はスリメダン鉄山を大正91922)年頃から開発した。その様子は詩人金子光晴の著作「マレー蘭印紀行」や石原産業の社史「創業三十五年を回顧して」に記されている。社史は紀州鉱山にも触れており、朝鮮人労務者、英軍人捕虜の問題に興味を持っていたのである。

石原産業の社史「創業三十五年を回顧して」。http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/32440079.html
 
イメージ 6
焙烙。赤木城跡出土品。熊野紀和鉱山資料館。
2階の展示室から見学を始めると、まず赤木城跡出土品のコーナーがあった。
赤木城跡の主郭から出土。播磨地域が搬出元。16世紀第四半期の作と考えられ、赤木城の築城時期と符合している。

イメージ 7
天目茶碗。赤木城跡出土品。熊野紀和鉱山資料館。
 
イメージ 8
赤木城跡出土品。熊野紀和鉱山資料館。
主郭・東郭・南郭出土の陶器片。鉄釘。
 
イメージ 9
入鹿鍛冶。                                       (拡大可)
入鹿荘内の小栗須・大栗須には鎌倉時代に大和から刀鍛冶が移住し、南北朝・室町時代に盛んに刀剣を作った。初代包貞は楠木正成の太刀を作ったと伝わる。大和手掻一派で徳治ごろ(1306年頃)の包定、嘉歴年間(1326年頃)から貞治年間(1362年頃)の實綱がいる。室町時代は吉野・熊野の衆徒に供給されたとされる。近年は幻の古刀として評価が高くなっているという。
秀吉の紀州征伐で入鹿一族が滅ぶと入鹿鍛冶は和歌山県粉河に移住した。
 
イメージ 10
入鹿鍛冶の刀剣類。
作風の特色は「入鹿肌」とよばれる柾肌があることで、柾肌とは柾目肌のなかに幾筋か肌に沿って黒い心鉄状の変り鉄が細く長く、鈍い地形のように真っ直ぐの筋になって、混じっており、その様がまるで白と黒の縞模様を見るような刀肌のことをいう。
資料館では、室町時代の「入鹿住 藤原實綱」銘の槍、入鹿鍛冶の流れをくむ刀・脇差を展示している。
 
イメージ 11
入鹿鍛冶の製作遺物。たたらなど。
作刀に必要な鉄の入手先は不明だが、この地区には硫化鉄鉱が多く、これを精錬して鋼を作った可能性が指摘されている。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles