江戸時代の坑内。揚水作業。熊野市紀和鉱山資料館。三重県熊野市。
2017年2月3日(金)。
東紀州地方には熊野酸性岩が分布しており、板屋のほかにも楊枝、小船、大河内、小森、大谷などの鉱山が点在している。
この地方の銅山が隆盛を迎えたのは江戸時代に入ってからである。紀州藩は鉱山開発に力を入れ、鉱夫を集めた。犯罪者でも罪を帳消しにしたため、募集に応じるものが多かった。鉱夫たちは各組に分けられ、親方の下で契約を結んだ。乱暴者揃いで統制に手を焼いた藩は博打を奨励し、鉱夫を借金漬けにした逃亡を防いだのである。
江戸時代の製錬設備。熊野床。
「熊野床」と呼ばれる新しい精錬法が開発された。銅の採掘が進めば、銅鉱石の産銅量は低下してくるが、精錬技術を高めれば銅生産は増加する。紀州藩のとった方法は、精錬用の焼き窯の送風技術を改良したのである。窯の底に紀和竹という節の間隔が90㎝の竹を使った送風管を取り付け、送風量を高めて焼成温度をあげ、銅鉱石の精錬度をあげた。
トロッコ電車、人車、鉱車。
紀州鉱山の大蛍石。
蛍光して発光し、パワーストーンとされる。
イルカボーイズ。使役された英軍捕虜。 (拡大可)
日本軍が中国大陸で15年戦争を始めると銅山も増産で戦争景気に沸いた。砲弾や銃弾の薬莢に銅が使われたため、需要が急増した。人口が流入し、山中に町ができた。しかし、若い鉱夫が入隊すると、人手不足が生じた。そこで、1944年(昭和19年)6月18日、マレー半島で捕虜になり、泰緬鉄道建設に酷使されていた英軍捕虜のうち頑健な者300人が紀州鉱山に送られ、坑内作業に動員された。
英国兵捕虜収容所の写真と説明。
板屋から1km離れた所山に2階建の捕虜収容所を建設し、周囲を塀と有刺鉄線で囲み日本軍の監視下に置いた。かれらは自らイルカボーイズと名乗り、能率的な仕事ぶりと紳士的な収容所生活で日本側の虐待を免れた。
英軍捕虜が描いた収容所。
以下は旧英軍捕虜からの寄贈品。
俘虜郵便。
タバコの包装紙で作ったノート。
番
号札、紙幣、勲章。
1997年4月、ライト駐日英大使の献花。
当時の収容所跡に最初の英人墓地が作られた。
1992年旧英軍捕虜が来日し、慰霊祭がおこなわれた。
石原産業紀州事業所の沿革から。熊野市紀和鉱山資料館図書室のアルバム。
石原社長講演。選鉱場下広場。昭和49年10月。
岩盤に残る刻字。上川立坑口。
大谷鉱山では南朝の年号である延元2年(1337)と坑道に刻まれた文字が発見されて有名になった。この地方が南朝方の拠点の一つだったことが明らかにされたのである。
1時間ほど資料館を見学後、すぐ近くにある選鉱場跡と英人墓地を見学に向かう。
紀州鉱山選鉱場跡地。
昭和14年に建設したもので、日量2000トンの選鉱処理を行うことができる日本でも有数施設であった。紀州鉱山の各鉱区で採掘された粗鉱石は、この選鉱場で機械選鉱処理し、精鉱石(主に銅鉱)を取り出したのち、和歌山県那智勝浦町の浦神港から船で精錬所に輸送された。
昭和53年5月の閉山後、選鉱場の建物は昭和57年に解体され、現在はコンクリートの柱群が当時の面影をしのばせている。
英人墓地。
戦後、地元では死んだ捕虜達の為に収容所跡に外人墓地を作った。道路建設により、外人墓地は移し替えられたが、その後も地元老人会が墓を美しく守ってきた。
1988年6月東京から来たアイルランド人神父が新宮市の神父に現地を紹介されたところ、保存状況に感激し、英国のカトリックの新聞に載せたことがきっかけになり、墓地の話がイルカボーイズに知られることになった。
彼らの多くは捕虜であった当時の苦しみを恨み、日本を憎んでいたが、入鹿の人々が墓を守っていることに心動かされ、多くの関係者の協力により、1992年10月イルカボーイズ一行28人が熊野市に着き、慰霊祭を行った。
十字架の墓標と墓誌。
外人墓地の史跡碑。
イルカボーイズ墓参記念碑。
資料館職員は、さきほども旧英軍捕虜の孫が墓参に来たと語っていた。
17時近くになったので、近くの立ち寄り湯「湯ノ口温泉」へ向かい入浴した。近くにあると思ったが、狭い道路は意外と距離があった。山の中にある割には、入浴客は多い。
このあと、和歌山県北山村の道の駅「おくとろ」へ向かった。