日本の滝百選「布引の滝」。三重県熊野市紀和町。
2017年2月4日(土)。
前日、熊野市紀和町の湯ノ口温泉入浴を終え、翌日も紀和町という日程と車中泊の適地を考えて、和歌山県北山村の道の駅「おくとろ」へ向かった。最近、トンネルが開通したらしく、途中まで随分時間が短縮できた。旅行前からここを考慮していたが、標高が高いので予定していなかったのだが。翌朝起きるとフロントガラスに氷がこびりついていた。しかし、快晴だったので、陽が昇るにつれて解凍した。橋の上などは凍結しているおそれがあるので、早朝の運転は危険でもある。
8時30分過ぎに出発。3県の境という看板あたりから新しい道路に変わった。
紀和町板屋から南へ狭い道へ入る。道標が完備していたので、迷うことなく布引の滝展望地に着き、路肩から簡単に眺めることができた。
布引の滝は、熊野川支流の楊枝川の枝谷・布引谷にある。落差は53mで、長い年月をかけて熊野花崗岩の岩盤を削り取ってできた。滝は四段からなり、一段目は12m、二段目は3.5m、三段目は7.7m、そして四段目は29.1mの落差をもって滝壺に流れ落ちている。
道路からは下三段しか見えないが、四段目は細い白布を垂らしたように優美に流れ落ちている。
300m先にある駐車場でUターンして、南東の楊枝川沿いにある水車谷銅鉱山遺跡へ向かう。
水車谷銅鉱山遺跡。入口。三重県熊野市紀和町。
楊枝川沿いの道路を南進し、こんな所にと道沿いの住居群を過ぎると、鉱山遺跡の案内看板があった。
150mほど先に、舗装された駐車場があるのを見つけ、駐車した。ネットでの様子を斟酌して、登山靴に履き替え、足回りを固めて、登り口へ向かった。
案内板から六地蔵尊まで550m、六地蔵尊から焼竈跡まで280m。
案内板から左の山腹沿いを登るが、踏み跡が不分明のため、右下の川沿いがルートかと思い、一旦案内板へ戻り、道路北西方面を眺めるが、やはり山腹のルートだと思い、登り直した。
15分ほどで、六地蔵尊へ着いた。六地蔵尊から番所跡、焼竈跡までは分かりやすい。往復1時間余り。訪れる人も少なく、薄暗く、本当に遺跡があるのか不安になり、墓も多いので、心霊ゾーンのようであった。
水車谷銅鉱山遺跡。楊枝川銅山史跡案内看板。 (拡大可)
三重県東紀州地域の国史跡は少ない。県史跡を捜すと、2009年3月に三重県史跡に指定された水車谷銅鉱山遺跡に食指を動かされた。ただ、ネットでも所在地を含め情報は少ない。所在地は熊野市の地図を入手して分かった。前日見学した、熊野市紀和鉱山資料館に若干の説明があった。
水車谷付近は「黄金の森」とよばれ、慶長小判や日光東照宮にも、この地の金が使われたといわれている。
水車谷銅鉱山遺跡。説明。熊野市紀和鉱山資料館。
江戸時代には、金・銀・銅の需要が大いに増加したことと採掘・精錬技術の進歩によって全国的に鉱山開発が盛んとなった。これを背景とした紀州鉱山は、元和年間(1615~1624年)頃から和歌山藩直営で銅の採鉱を始め、明治時代初めに廃絶した。
紀州鉱山のひとつである水車谷鉱山跡は、楊枝川右岸に位置する入会山の谷川沿いに所在し、江戸時代中期から後期にかけて栄えた鉱山跡である。
鉱山跡を示すものとしては、鉱石を焼いて溶鉱するために石と粘土で固めた竈(かまど)跡3基、採掘の坑口跡や多量に廃棄された銅滓(どうさい)跡、役所跡や番所跡と伝承される石垣で区画された跡などが所在する。
墓地には三界萬霊塔や墓石などの石造物が110基余あるが、文化・文政・天保(1804~1843年)年間のものが圧倒的に多く、鉱山の最盛期がこの頃と考えられる。また、墓碑銘には生野銀山・多田銀山のほか伊予・安芸・伊豆・陸奥・紀伊などからの出向者の存在や、男性以外に幼児や女性などの名前から、家族を含めた従事者の存在もうかがわれる。
保存状態が良好な銅精錬用竈跡や、鉱山での生活を伝える屋敷跡地や石造物などが数多く残された産業遺跡として高く評価される。なお、「水車谷」の名称は、銅山で働いた人々が米をつくためや鉱石を砕くための水車があったとされる伝承に由来する。
水車谷銅鉱山遺跡。概念図。
水車谷銅鉱山遺跡。主要部位置図。熊野市紀和鉱山資料館。
水車谷銅鉱山遺跡。主要部復元模型。熊野市紀和鉱山資料館。
当時は谷川沿いに多くの建物が軒を並べていた。
石畳の道。
入口付近は踏み跡が分かる程度だが、次第に石畳の多い道となり、往時の繁栄ぶりをしのばせる。
六地蔵尊地区。
15分ほどで到着。六地蔵尊、澤了円水居士碑があり、先には役所跡への分岐道がある。役所跡へは困難さが想定されたので行かなかった。
六地蔵尊。
澤了円水居士碑。
六地蔵尊のすぐ近く、番所跡・焼竈跡への道沿いにある。
澤了円水居士碑。
家紋が刻まれている。有力な山師と推測されている。
番所跡下の石垣。
番所跡。
手水鉢がある。坑口跡が後方と右下にある。
坑口跡。番所跡後方。
坑口跡。番所跡右下。
カラミ。
番所跡から焼竈跡へ渡る橋の右上部分。
焼竈跡地区。
広い平地になっており、奥左に墓石群、奥正面の斜面に焼竈跡、奥右上斜面にも焼竈跡がある。
焼竈跡。
奥右上斜面。
焼竈跡の墓石群。
石庭のような景観となっている。
正面の焼竈跡。
精錬用の焼き窯.。
墓石群左上からアクセスしようとしたが無理だったので、正面へ戻り、斜面を直登した。
正面の焼竈跡。
正面の焼竈跡。
内部奥側。
右上斜面の焼竈跡。
こちらの方が規模は大きい。
右上斜面の焼竈跡。説明板。
主要部の見学を終えたことにして、遺跡入口の案内板へ戻った。単独行なので、このルート以外の枝道に入る気にはなれなかった。真冬の探索行だったが、雑草の多い季節はどういう状態になっているのだろうか。
近世日本の鉱山遺跡として貴重なので整備保存を続けてほしいものだ。
11時30分を過ぎ、すっかり大気が暖まってきたので、昨日失敗した新宮市熊野川町嶋津の山歩きのリベンジへと向かった。