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台湾 台南市 国立台湾歴史博物館 浜田弥兵衛事件 公廨(コンカイ) 媽祖遶境 

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末吉家朱印船清水寺奉納絵馬。寛永
11 (1634) 年。国立台湾歴史博物館。
2016124()。台南市安南区。
天下統一を達成した豊臣秀吉は1593年に「高山国」宛てに心服するよう要求文書を出したが、当時の台湾に国としての実態はなく、無に帰した。しかし、日本人の間に台湾への関心が高まり、1609年に島原日野江城主有馬晴信が、1615年には長崎代官村山等安が船を派遣した。
 
1624年(寛永元年)、オランダは台湾島を占領、ゼーランディア城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛(長崎代官末次平蔵の配下)ら日本の商人達はこれを拒否した。
1627年オランダ領台湾行政長官ノイツは江戸幕府と交渉を求めたが、先住民を江戸城で謁見させた浜田弥兵衛に阻止された。1628年(寛永5)ノイツはタイオワン(台南・安平)で、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げた。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが、それを拒否したノイツに対し弥兵衛は、隙をついてノイツを組み伏せて人質にとり、騙して長崎に送り、牢に入れた。
これが、浜田弥兵衛事件(タイオワン事件)といわれる紛争である。

その後、末次平蔵が1630年に入獄殺害されたのち、1636年オランダ東インド会社が幕府と交渉し、ノイツは釈放された。
 
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ャンク船模型。
1617世紀に台湾や東南アジアの交易船として使用された中国式帆船。香料、陶磁器、綿布、絹織物、鹿側、金銀製品、漆製品などが交易された。
 
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公廨(コンカイ)。平埔族の壷を祀る風習。
コンカイと呼ばれる村中にある祭場で、広場には四本の竹を柱として茅の葉で葺いただけの粗末な小屋が建っている。イノシシの頭骨が竹の柱に括り付けられ、その下には壺が置かれている。
元々は平埔族原住民の男性の住居あるいは集会所を指す。1603年の中国の文献に「公廨」が初出する。19世紀後半ポール・アイビスが宗教祭祀の場所として記録した。
 
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国分直一の著作『壷を祀る村』(昭和
19年)では、シラヤ族の村で、祖神アリズの神体であるという壺が祭壇に祀られていたことを記している。
昭和38年に国分はシラヤ地方を再訪し、知母義より東方山麓の左鎮郷で阿立祖信仰の遺風に出会う。双角木柱の神座にはキョンやイノシシの頭骨が掲げられていた。壺を祀る形式は簡略化されたものと理解された。
さらに古式があり、「安平県雑記」には、太い竹の上に、人を殺して馘首して皮肉を去った頭骨を掲げていたが、清朝が禁止したので獣骨に変わったと記されている。
 
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平埔族シラヤ族。漢族の圧迫による
4大集落の移動経路。  (拡大可)
シラヤ族(西拉雅族)は台湾原住民の一つであり、平埔族の一支族に分類される。主に台南に住み、高雄、屏東にも居住している。八田與一で知られる烏山頭や関子嶺温泉のある地区がシラヤ国家風景区になっている。
4大集落は蕭壠社、麻豆社、目加溜灣社、新港社。
 
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1874
年牡丹社事件。牡丹社降伏後、西郷従道および蕃社琅嶠十八社会合。
 
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牡丹社事件に参加した原住民。
 
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媽祖遶境。媽祖が街を巡る行事。
媽祖を迎えるお祭り。漢人文化。「媽祖遶境」の行事では慈悲をもって衆生の普渡が願われ、信徒にとって重要な拠り所となっている。
行事の最中には神輿の行進に伴って銅鑼や太鼓が叩かれ、至る所で線香を上げて媽祖を迎え入れ、爆竹を鳴らし、敬虔な信徒は跪いて媽祖を迎えると共に祈りを捧げる。

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