赤崁楼。海神廟とその前に立つ9基の石碑「御贔屓碑」。
2016年12月5日(月)。台南市。
宿泊は駅前の鉄道大飯店。朝食券でコーヒーを飲めるので、8時頃にコーヒースタンドへ行くと、10人ほどが待っていた。女性職員が来たが、すぐには飲めないので同金額で栄養ドリンクと缶コーヒーをゲット。翌朝もこの手を使った。
前日昼に台南駅に着いたときに、駅前の観光案内所で多くのパンフレットを入手した。今回回った観光地では一番優れていた。
8時30分に駅前のバス停から台湾好行88安平線に乗車し、赤崁楼で下車。昼頃気付いたが、安平行きの本数は少ないので、先に安平へ行ったほうが良かった。古都台南では赤崁楼観光がまず思い浮かぶ。ホテルで見たトリップアドバイザーでは安平樹屋が一番人気がある。
日本人シニア夫婦も赤崁楼で下車したが、赤崁楼へ入らずに西へ歩いていった。美食の街台南では朝からグルメが人気である。入口で日本語の詳細なリーフレットを貰った。
赤崁楼。鄭成功和議の像と海神廟。
明時代1653年に台湾南部を占領したオランダ人によって築城され、当初は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)とよばれた。
1624年、澎湖を拠点に明と争っていたオランダと明の間に講和が成立し、オランダは澎湖の経営を放棄し、その代替地として台湾南部に上陸し、「ゼーランディア」(Zeelandia、熱蘭遮城、現・安平古堡)を築城して商館や砲台を築き、台湾統治の中心とした。
1625年にオランダ人は布15束で原住民から赤崁の土地を買い取り、商館、市街、倉庫、病院を設置して普羅民遮街と名付けた。
1652年にオランダ人による統治への不満により、「郭懷一事件」が発生すると、オランダ人は事件の再発を防止するために、周囲約141m、城壁高さ10.5mの城砦「プロヴィンティア城」を建築し、行政と商業の中心とした。
1661年鄭成功がプロヴィンティアを攻撃し、鄭成功は普羅民遮城を東都明京と定め、承天府を設置し、台湾全島の最高行政機関とした。
1664年に東都承天府が廃止されると、赤崁楼は火薬貯蔵庫として用いられるようになり、人為的な破壊、風雨による侵食、地震による被害を受け赤崁楼は周囲の城壁を残すのみにまで荒廃した。
1886年台湾の沈受謙知事が赤崁楼の跡地に文昌閣、五子祠を建立、海神廟を修復し、西側に蓬壷書院を建設し、昔日の様子を取り戻すようになった。日本統治時代には陸軍の衛戍病院及び医学生の宿舎として利用された。
1921年、台湾総督府により大士殿の解体修復が行なわれた際、プロヴィンティア時代の堡門が発見され、また東北部からはオランダ時代の砲台跡が発掘され、歴史館が設置された。
戦後は修復が重ねられて、現在の外観となった。
「鄭成功和議の像」は1980年地元のライオンズクラブにより建てられた「鄭成功受降図」がもとで、その後ひざまずいて投降したオランダ人の像を立像に改めて、改名された。
「御贔屓碑」右横の滝と流れ。
「御贔屓碑」。
花崗石でできた亀の上に碑文が立てられ、その石碑の上部には竜が彫られている。
清朝乾隆帝時代1781年に台湾で林爽文事件が起き、陜甘総督の福康安に平定させた。1788年に乾隆帝は自ら筆を執って5編の詩文を書き、満州文と漢文で石碑を刻ませた。
石碑の額の上方には篆書体で「御製」と刻まれた額を咥えた龍の群れがあり、8匹の飛龍が左右両側を這いつたっている。龍の足の爪は皇帝だけが使える本数と同じ5本と格調が高い。
石碑の様式は、龍が生んだ9匹の子のうち、1匹が重荷を背負う神痛力を持つ亀に似た動物である贔屓になり、石碑を背負っているという伝説にちなんでいる。
以前は別の場所にあり、移築された。
「御贔屓碑」左の円形アーチをくぐると、右の基壇上に、清の時代に造営された海神廟と文昌閣が建っている。
「御贔屓碑」の裏側。海神廟の回廊から。
小碑林。海神廟の基壇の城壁に陳列されている。
戦後、台南市歴史館となっていた時代に収集された石碑20数基が陳列されている。
「断足の石馬」像。
清朝の武将であった鄭其仁の墓前にあった石の彫刻。
もともと鄭成功の墓前を守っていた石馬であったが、鄭成功の墓が福建省に移された後、鄭其仁が鄭成功の墓穴だった場所に埋葬された。石馬は、その墓を守ることを拒み、夜になると付近の田んぼを踏み潰すという災いを起こすようになり、怒った農民に脚を鋸で切られてしまい今の姿になったと伝わる。
プロヴィンティア城正門跡。石馬の後ろにある基壇下部。
1944年の日本による修復時に発見された。かつての階段の跡が残っている。
蓬壺書院。
1886年、文化と教育を提唱した沈受謙知事は、「引心書院」を赤崁の北側に移転して改修し、蓬壺書院と改名し、科挙試験に参加する学生の教育機関とした。
日本統治時代に地震の被害によち多くは倒壊したが、閩南様式の門庁(応接間)が残っている。
蓬壺書院から眺める文昌閣と海神廟。
基壇にはプロヴィンティア城時代の主砦の基礎となる城壁が残存している。オランダ時代のレンガには、砂糖水、もち米汁、カキ殻の灰を調合したものが使われており、堅固な土台を築いている。
プロヴィンティア城時代の遺構。
プロヴィンティア城は四角形の主砦に加え、東北側と西南側に堡塁が築かれた菱形の構造をして、防衛機能を高めていた。
東北側の堡塁跡に建てられた五子祠は台風により崩壊したが、1944年の改修時に堡塁の遺構が発見された。
堡塁構造図。
煉瓦造の壁の厚さと防御構造を示す。
文昌閣の2階から眺める海神廟。
海神廟は古式ゆかしい楼閣で、伝統的な「歇山重簷式」という屋根の先は、生き生きと水の中を踊る鯉の造型で飾られている。
文昌閣は1886年、台湾知事を務めた沈受謙により建立された。2階には学問の神である魁星爺が祀られている。現在でも試験の神として参拝する学生たちに姿が見られる。
扁額「赤嵌樓」。海神廟1階。
海神廟は1875年に牡丹社事件を受けて派遣された沈葆が海神の庇護を感謝するために建立した。
廟門の上の梁には黄杰による「赤嵌樓」の扁額があるが、文昌閣には沈受謙による「赤崁樓」の扁額があり、「嵌」と「崁」のどちらが正しいか論争となった。
扁額「東海流霞」と鄭成功の肖像画。海神廟1階。
「東海流霞」は鄭成功による五言詩「礼楽衣冠第、文章孔孟家、南山開寿域、東海醸流霞」(服装から人となりを判断し、生活の哲学は儒家に学び、南山のように長寿であり、最上の酒は東海で造られる)から採られた。
瓶形の門。海神廟1階。
海神廟東方の壁にあり、平穏無事という意味がある。
ウサギと芭蕉の葉の図案。瓶形の門。海神廟1階。
ウサギは月を表し、「玉兎東昇(長寿と子孫繁栄)」を象徴する縁起のよい図案である。芭蕉の葉は五行思想で木に属するもので、東方を象徴している。
プロヴィンティア城復元模型。海神廟1階。
ゼーランディア城想像図。海神廟1階。
清時代後半の赤崁楼。文昌閣、五子祠、海神廟。海神廟1階。
扁額「海神廟」。海神廟2階。
ゼーランディア城時代の古絵図。海神廟2階。
昔の漢族楼船、広船、南京船、蒙衝船などの船舶模型。海神廟2階。
文昌廟の2階と屋根。海神廟2階から。
海神廟と同じく、「歇山重簷式」という中国式建築様式で、屋根が弓なりに曲がり、屋根の軒先が緩やか空に向かって延びている。軒先の鯉の造形は水しぶきを上げている。
文昌廟の屋根。海神廟2階から。
獅子の威厳のある顔は厄除の意味を表す。
海神廟2階から南方向の風景。
1時間ほど見学して、南の祀典武廟へ向かった。