八田與一記念館。
2016年12月6日(火)。台南市。烏山頭。
烏山頭ダム堰堤南端の中正公園から入口方面へ戻ると、八田與一記念館があり、彼の残した業績に関する資料、遺品や在りし頃の写真、ダム建設時の様子などの文献を見ることができる。
内容は八田與一記念公園の展示館と重複しているが、こちらには遺品がある。
八田與一の遺品。勲三等瑞宝章、時計など。
八田與一の遺品。和服。
八田與一の妻・外代樹(とよき)の遺品。硯箱、手鏡。
山本武彦氏が書いた八田與一に関するパンフレットを入手して、退出。
外代樹が身投げ自殺をした旧放水口は八田與一記念館のすぐ下にある。
旧放水口。室内。
旧放水口。室内。
旧放水口。室内。
旧放水口。
ダム放流のさい、非常に激しい勢いで水が噴き出すことから「珊瑚飛瀑」ともよばれる。
旧放水口とその上にある八田與一記念館。
1997年に、新放水口が別の場所に完成したが、今でも補助的な役割を果たしている。
戦爭が始まると、台湾総督府に戻っていた八田與一はしばしば中国大陸などへ調査のため派遣された。昭和17年(1942)フィリピンへ水利開発の実地調査のため向かったが、5月8日に五島列島沖で、アメリカの潜水艦に擊沈され、57才の生涯を終えた。遺骸は、丁度その付近で網を使って捕獲漁業の作業をしていた山口県の漁船の網にかかり、八田氏の故鄉に送られて火葬にされ、遺骨は再度台湾にいる家族のもとに送られた。
八田の妻外代樹は、嘉南大圳工事が完成してからは、夫と共に台北の官舍に戻っていた。戦爭が激しくなると、外代樹は子供達と烏山頭へ疎開した。終戦後、昭和20年(1945)8月31日の夜、次男の泰雄が学徒動員から復員して、烏山頭の疎開先に戻ってきた。
その9月1日の未明に八田夫人は、外代樹は八田家の家紋入りの和服に、裾が乱れないようにと、モンペを身につけて、遺書を残して放水口の渦卷く水の中へ身を投げて、享年僅か45才で夫の後を追ったのである。奇しくも、25年前の嘉南大圳工事の起工日と同じ日であった。
旧放水口。
親水公園のプールを抜けて、烏山頭の入口ゲートへ戻った。
烏山頭のバス停で、時刻表には13時の善化駅行きの他に、台北寄りの新営駅行き便がその直後にあり、迷ったが、結局先に来た善化駅行きに乗ってしまった。新営駅行きの方が良かったと後悔した。
善化駅14時29分発の自強号に乗車し、18時30分に台北駅に到着。15分ほど歩いて重慶南路一段のニューメイフラワーホテルに投宿。ホテルズドットコムの宿泊割引を利用したので、3985円のところ974円で宿泊。
翌日が、旅行最終日。九份、基隆、新北投温泉を見学した。