北投温泉博物館。
2016年12月7日(水)。台北市。
北投温泉街にある凱達格蘭(ケタガラン)文化館を見学し、公園西の道路右側にある北投温泉博物館へ向かった。公園の右側に入口があると思い、公園の遊歩道を抜けると公園の中に台北市立図書館北投分館があった。
台北市立図書館北投分館。
木材を大量に使用したエコ建築で、環境共生建築とも緑の建築ともいわれ、世界で最も美しい図書館の上位に選ばれているという評判をネットでみかけていたので、外観を眺めたが、時間がないので、中には入らなかった。
公園を抜けて東側道路を歩くと、北投温泉博物館の入口が公園西道路側にあることに気づいて、もう一度公園を通って、西側道路へ戻った。
北投温泉博物館。入口。
入口は西側道路沿いにあり、2階部分にあたる。入口脇には人力車用の待合が設けられていた。
この建物は北投温泉公共浴場として、1913年6月、当時の台北庁長井村大吉の発案により、日本の静岡県伊豆山温泉を模して、建設された。
当時東南アジア最大の公共浴場であったという。
設計者は台湾総督府、台南州庁など多くの官庁建築を手がけたことで知られる森山松之助である。敷地は約700坪で、一階はレンガ造りの洋風、二階は木造の和風で、外観は「和洋折衷」を基調として建てられた。一階が浴場、二階が休憩所となっており、利用客は一階で入浴して着替えを済ませた後、階段を上がって二階の大広間で涼んだり、展望テラスに出て北投渓沿岸の美しい風景を楽しむことができた。
北投温泉博物館。入口。
戦後、国民党政府や台湾人は温泉文化に関心がなく、「北投温泉公共浴場」は、荒廃する一方であった。1994年北投小学校の教師と児童たちが郷土学習の中でこの荒廃した公共浴場を発見、浴場を守ろうと陳情書を書きいた。1997年に政府から市定古跡に指定する旨の公告が発布され、1998年10月31日には「北投温泉博物館」が設立された。
入館したのが、16時25分ごろで暗くなりかけていたが、観光客は多かった。
2階。大広間。
48畳の大広間。当時は四方に障子が立ち、休憩、お茶や食事、囲碁・将棋などが楽しめる場所であった。
2階。大広間。
現在は館内のイベントロビーとなっている。
2階。廊下。
当時の北投公園。
1階へ下る階段手摺りの装飾。
1階。個室の浴場
大浴場は男性客のみに提供されるので、女性客は家族連れとして、より狭い個室の浴場を使わなければならなかった。浴場の広さから、当時の男尊女卑という保守的な風習が垣間見ることができる。
景観台からは中山路沿いにある小さな池が見える。その形はハート型とも「心」という字を模しているともいわれている。
展示。
左。1912年4月14日付け「台湾日日新報」の北投公共浴場設計の報道。
右。1913年6月17日落成後の北投公共浴場。
800キロの北投石。
北投石(ほくとうせき・Hokutolite)は、世界中の4000種類の鉱物の中で唯一台湾の地名で命名された鉱石。北投石が生成されるのには特殊な地質条件が必要で、地熱谷にあるラジウム温泉と「瀧」がその生成の鍵を握る。
800キロの北投石。
北投石と自然放射線。
北投石はとても珍しく、世界でもここ北投と秋田の玉川温泉でしか産出されない。ラジウムが体内に浸透すると、強い解毒作用が働くといわれている。
1905年、岡本要八郎(当時台北博物館に勤務)が北投渓の川底で北投石を発見した。
大浴場。
縦9m、横6m、男性専用の大浴場の規模は東アジア最大で、ローマ式浴場とよばれた。浴槽、廻廊、列柱、ステンドグラスなど、大浴場の中にある部材はすべて6:4の比率で作られて、秩序の美を来客に体感させた。
入口にあたるところには2段の階段があり、そこを降りると40cmの深さの湯船が奥に行くにしたがって段々と深くなって1番深いところで130cm。立ったままお湯に浸かる「立湯」も、この大浴場の特徴の一つであった。
当時の大浴場。
50~60人もの人たちが一度に湯に浸かることができたという。
廻廊の上のステンドグラス。
大浴場に色彩を投影していた。
北投温泉博物館。外観。
滝乃湯。
和風の温泉立ち寄り湯で有名な滝乃湯は、明治40年ごろの創業で、台湾に現存する浴場の中では最古の部類にあたる。
滝乃湯。
すごく期待していたのだが、工事中だった。再開は来年といわれたが、確かめると2017年4月7日から再開となっている。
他の浴場へ入る気も失せてしまったので、台北駅前のホテルへ戻って、預けたデイパックを受け取り、今回の旅行を終了した。
12月8日午前1時55分発のジェットスター便で中部国際空港へ帰った。