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三重県明和町 史跡公園 「さいくう平安の杜」

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史跡公園。「さいくう平安の杜」。西脇殿と正殿。三重県多気町斎宮。
2017512日(金)。
「さいくう平安の杜」は201510月に公開された。入場無料。
平安時代前期(9世紀初め)の復元建物3棟(正殿・西脇殿・東脇殿)を、発掘調査で発見された位置の上に実物大で再現している。
3棟が建っていた一画は「寮庁」と推定され、斎王を支えた斎宮寮の中心部分で、斎宮寮長官が役人を前に重要な儀式を行ったり、神宮や都からの使いをもてなした場所と考えられる。
 
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復元建物。
正殿は、室生寺(奈良県宇陀市)の本堂などを参考に入母屋造の檜皮葺き屋根で復元された。
広場の東西には脇殿が復元された。西脇殿は約160㎡と最も面積が広い建物で、宴会などが開かれたと想像される。東脇殿は3棟で最も小さいが柱は直径約30㎝で最も太く、壁のない土間床の建物と推定。役人たちが待機したり、儀式の準備を行った建物とみられる。
 
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正殿。内部への立入りはできない。
正殿は約1.5mの高床が特徴で、南側には長官らが儀式を行ったり、使節に接見したと想定される広場が広がる。
 
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広場の先には近鉄山田線の線路が横切り、その向こう側には斎王が居住した「内院」があったと推定される竹神社の森が望める。
 
斎宮が存在した場所に行かなければ話にならない。シリーズ「遺跡を学ぶ」(新泉社)や「日本の遺跡」(同成社)を事前に読むと、鍛冶山西地区が斎王の住んだ内院の想定位置らしい。奈良時代は史跡の西にあったが、平安時代には東に移動している。
西脇殿に3人の現地ボランティアが詰めていた。鍛冶山西地区を斎宮駅付近と理解していたが、違っていたようだ。話を聞くと、竹神社が内院に相当するという。内院の北に寮庁があったということは承知していた。区画名が紛らわしい。この区画は柳原地区らしい。
竹神社は牛場東地区に属す。斎宮歴史博物館のリーフによると、牛場東地区は斎王の儀式空間、その東の鍛冶山西地区が斎王の居住空間と記している。
 
ボランティアが語ったように、三重県による史跡公園「さいくう平安の杜」(約27ha)の総事業費は約10億円という。それほどの費用対効果があるのかどうかは別として、文化施設に費用をかけることは素晴らしい。
観光客を集めるには、やはり仕掛けが必要だろう。平安時代の食べ物をアレンジしたB級グルメを開発してほしい。
 
内部には、復元にいたる調査の成果がパネルで展示されている。
 
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斎宮跡柳原地区の発掘調査。
 
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柳原地区での「寮庁」の解明。
9世紀前葉から11世紀まで正殿が200年以上にわたり、5回以上建て替えられていたことが分かった。
 
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遺構からみた柳原区画の変遷。
8世紀末~9世紀初頭。
 
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世紀前葉。
 
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世紀中葉。
 
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世紀後半。
 
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世紀末~11世紀前葉。
 
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世紀中葉~後葉。
 
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「内院」牛場東地区の発掘調査。
 
内院のあったという竹神社へ向かった。
 
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竹神社。神宮遥拝所。
伊勢地方の多くの神社に設けられている。
 
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竹神社。
第11代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじ、竹氏という豪族)の祖宇加之日子の子の吉日古が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり多気郡一円を領して斎宮に住む。
この竹氏の子孫が祖神宇加之日子・吉日古を祀ったのが当社である。当社はもと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが、明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された。
この地は江戸時代には「野々宮」または「旧地の森」とよばれていた。
 
このあと、斎宮歴史博物館へ向かった。

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