秦始皇帝陵。西安。
2017年7月7日(金)。
秦始皇兵馬俑坑博物館を見学ののち、西安市内方向へ1.5㎞ほど戻ると、すぐに秦始皇帝陵を南側から遠望する地点にきた。
陵域は広く、バス道路から北は秦始皇帝陵の公園となる予定で、敷地内の建物は撤去されるという。
墳丘の外側には内城と外城の城壁が囲んでおり、外城は東西940m、南北2165mの広さがある。内城の墳丘北側には寝殿と便殿があった。寝殿は、始皇帝の霊魂が地上に出て飲食し、衣服を受け取る建物である。便殿は、始皇帝の霊魂が休息する場所である。
外城の東側中央には巨大な門が設けられていた。そのイメージは翌日見学した前漢景帝の陽陵に復元された門で想像することができた。
秦始皇帝陵。
始皇帝陵は、東西350m、南北345mの広さで、高さ76m、体積は約300万立方m。70万人が38年をかけてつくったといわれる。
始皇帝陵の地下宮殿はまだ発掘調査がされていない。司馬遷の「史記」には、「地下に銅板を敷いて、宮殿や楼閣を築いた。自動発射の弓を置いて、忍び込もうとする者を射殺する。水銀を流して河や海をかたどった。天井には、宝石で描かれた星がまたたいている。」などと、記されている。
2003年11月、最新の科学技術を駆使した調査により、実際始皇帝陵の中に宮殿のような空間があること、水銀の反応があることなどが確認された。
華清池。
始皇帝陵のすぐ西の驪山の北西麓にある有名な温泉池で、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで名高い。
周代から温泉地として知られ、歴代の皇帝も、ここを行楽の地として大掛かりな造営をした。玄宗皇帝も華清宮を作り、毎年冬から春にかけて、楊貴妃を伴い、酒楽の日を明け暮れ多くのロマンスを生んだ。「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉の水滑らかに凝脂を洗う。」白楽天の「長恨歌」は二人の愛情を如実に歌うと同時に二人の贅沢きわまった生活振りも反映している。
華清池。
現在、かつての楊貴妃が「凝脂」を洗っていた浴槽が昔のまま保存されている。楊貴妃が入浴したとされる「海棠湯」は、海棠の花の形をしている。玄宗が入ったといわれている「蓮花湯」と「海棠湯」、「星辰湯」は復元され華清宮御湯遺跡博物館として一般公開されている。湯泉は、現在でも入浴でき、リューマチや関節炎に効果があるという。華清池は、1936年に西安事件が起きた場所としても有名である。
華清池。
驪山の北西麓一帯は多くのホテルなどが並ぶ地区となっている。
青龍寺。入口。
青龍寺は西安市東南郊の雁塔区にある仏教寺院で、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。唐の長安城においては、左街の新昌坊に位置した。
青龍寺は隋の開皇2年(582)に、文帝が長安城を造営する際、予定地に散在する古墓を城街区へ移送し、その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した霊感寺が前身である。
初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662)に太宗の城陽公主が「観音経」の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置するので、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。
746年、不空三蔵が「金剛頂経」を中国に請来した。不空三蔵の高弟が恵果である。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけ、密教が全盛期となる。
空海が青龍寺に入ったのは805年で、空海は恵果に学び、806年多数の仏教経典や書籍を携えて帰国した。その後も天台宗の円仁や円珍らも密教を学んだ。
会昌5年(845年)会昌の廃仏によって再び廃毀されたが、大中6年(852年)復興し、護国寺と改められた。その後、唐末五代の動乱により、長安は急速に寂びれ、青龍寺も廃墟となってしまった。
1982年以来、青龍寺は復興され、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建てられた。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。
青龍寺。入口横の青龍寺庭園築造之碑。
1993年11月11日、青龍寺跡付属庭園落成式典の記念碑。四国四県などが建立した。
青龍寺の日本語女性ガイドに引率されて見学。
青龍寺。「青龍寺早夏」。白居易の詩碑。
詩碑廊という回廊を回る。「青龍寺早夏」は810年頃に詠まれた。
「青龍寺早夏」。白氏文集卷九。
塵滅經小雨 塵は滅す小雨を経て
地高倚長坡 地は高し長坡(ちょうは)に倚(よ)りて
日西寺門外 日は西す寺門の外
景氣含和 景気清和含む
閑有老僧立 閑(かん)にして老僧の立てる有り
靜無凡客過 静(せい)にして凡客の過(よぎ)る無し
殘鶯意思盡 残鶯(ざんおう)意思尽き
新葉陰涼多 新葉陰涼(いんりょう)多し
春去來幾日 春去りて来(このかた)幾日ぞ
夏雲忽嵯峨 夏雲忽ちにして嵯峨たり
朝朝感時節 朝朝時節を感じ
年鬢暗蹉跎 年鬢(ねんびん)暗に蹉跎(さた)たり
胡爲戀朝市 胡為(なん)すれぞ朝市を恋ひて
不去歸煙蘿 去りて煙蘿(えんら)に帰らざる
青山寸歩地 青山寸歩の地
自問心如何 自(みづから)問う心如何んと
小雨を経て塵は洗い流された。丘陵に寄り添ってこの地は高い。 日は寺の門のかなた、西へ傾いた。景色は清らかで和やかな気を含んでいる。 境内はひっそりとして、老僧のたたずむ姿がある。しんとした中、参拝客の通る姿はない。 里に留まっていた鶯も、啼く意思は尽き、木々の若葉は繁り、涼しげな陰が多い。
春が去って以来、幾日が経ったろう。夏雲がにわかに峨々と聳え立つ。 朝毎に移りゆく季節を感じ、年と共に鬢の毛はひそかに少しずつ衰えてゆく。
何ゆえ私はいつまでも俗世に恋々とし、煙霧に包まれた山奥へと帰らないのか。 青々とした山は目睫の地にある。自らに問う、私はどうしたいのかと。
青龍寺。「青龍寺早夏」。白居易の詩碑。画の部分。
青龍寺一帯は小高い丘の上にあった。
青龍寺。空海の漢詩碑。「留別青龍寺義操阿闍梨」。
「経国集」の卷第十、詩九に所載。
「経国集」は平安前期の勅撰漢詩文集で淳和天皇の命で、良岑安世が滋野貞主らと編纂した。天長4年(827)成立。嵯峨天皇・石上宅嗣・淡海三船・空海ら178人の作品千余編を収める。
空海が帰国するさい、青龍寺で仲の良かった義操に与えた詩という。
「青龍寺にて義操阿闍梨に留別す」。
同法同門、遇うを喜ぶこと深し、空に随う白霧、忽ち峰に帰る
一生一别再び見(まみ)え難し 夢に非ず 思中に数数(しばしば)尋ねん
同じ仏門の友としてあなたに出会えたことに私は深い喜びを感じている。しかし、空を漂って流れる白霧がたちまち峰に帰るように、私も故郷に帰る時が来た。今生、ひとたび別れしてしまえば次に会う事は難しいだろう。だが、夢の世界の中ではなく、この現実世界においていつも胸の中であなたを思う事にしよう。
青龍寺。詩碑廊。
青龍寺。知恵の輪。
数珠の形をしており、零を意味する。四国88個所巡りの零番札所という意味もある。
青龍寺。空海記念碑へ登る石段。
青龍寺。空海記念碑。
1982年、空海ゆかりの四国4県と真言宗の主たる門徒が中心となって、西安市政府、中国仏教協会の協力を得て、空海記念碑を建立した。
四隅の丸い置物は四つの県を表しているという。
青龍寺。記念植樹碑。
四国四県からは桜の苗木が贈られ、青龍寺境内は桜の名所として賑わうという。
青龍寺。恵果・空海記念堂内。
青龍寺。恵果・空海記念堂内。
1980年代の日中友好ブームがなつかしい。
青龍寺の御朱印が全員に配られて、見学は終了した。