ブルゴーニュ地方。オータンAutan 駅。2012年6月18日(月)。本日はリヨンの北東、ブルゴーニュ地方にある古代ケルト時代の遺跡ビブラクテBibracteの見学に出かける。
最寄の都市はディジョンに近いオータンAutan。鉄道はあるが、直通列車はなく、不便な都市である。自宅でも一応、ネットで調べてはいたが前々日、リヨンのペラーシュ駅に出向き、往複の便を尋ね、印刷してもらった。
往路はリヨン・ペラーシュ駅5時51分発、リヨン・パール・デュー駅6時7分着、6時20分発、シャニーChagny駅7時47分着。同駅からバス8時15分発、オータン駅9時22分着の行程。
復路はオータン駅16時17分発、エタンEtang駅16時35分着、16時40分発、ボーヌBeaune駅17時26分着、18時1分発、リヨン・パール・デュー駅着19時40分着の行程。
鉄道もバスもユーレイルパスでカバーされている。
シャニー駅からブルゴーニュの丘陵の中をバスに揺られて、オータン駅に9時22分頃到着した。
駅で下車したのは私たちぐらいで閑散としていた。駅の中に入ったが、列車の本数が少ないせいか係員はいない。ビブラクテへは西へ25辧⊆屬30分近くかかる。駅前にはタクシーはいないし、通りかかる様子もなく、困ってしまった。駅前に面した道路の角地にある軽食兼売店に飛び込み、タクシーが必要だと、マダムに訴えると、親切にもタクシーを呼んでくれた。
最寄の都市はディジョンに近いオータンAutan。鉄道はあるが、直通列車はなく、不便な都市である。自宅でも一応、ネットで調べてはいたが前々日、リヨンのペラーシュ駅に出向き、往複の便を尋ね、印刷してもらった。
往路はリヨン・ペラーシュ駅5時51分発、リヨン・パール・デュー駅6時7分着、6時20分発、シャニーChagny駅7時47分着。同駅からバス8時15分発、オータン駅9時22分着の行程。
復路はオータン駅16時17分発、エタンEtang駅16時35分着、16時40分発、ボーヌBeaune駅17時26分着、18時1分発、リヨン・パール・デュー駅着19時40分着の行程。
鉄道もバスもユーレイルパスでカバーされている。
シャニー駅からブルゴーニュの丘陵の中をバスに揺られて、オータン駅に9時22分頃到着した。
駅で下車したのは私たちぐらいで閑散としていた。駅の中に入ったが、列車の本数が少ないせいか係員はいない。ビブラクテへは西へ25辧⊆屬30分近くかかる。駅前にはタクシーはいないし、通りかかる様子もなく、困ってしまった。駅前に面した道路の角地にある軽食兼売店に飛び込み、タクシーが必要だと、マダムに訴えると、親切にもタクシーを呼んでくれた。
オータン。ヤヌス神殿。タクシーに乗り、ビブラクテへ向かい、オータン郊外にあるヤヌス神殿に立ち寄った。この建物はガロ・ローマ時代のAD1世紀に建てられ、高さは24mで崩壊しかけている。ヤヌスはジャニュアリーの語源でもあるローマ神話の神。実際には、ケルトの宗教であるドゥルイド教の神殿である。
オータン。ヤヌス神殿。復元想像図。中央の神殿の周囲を屋根付きの回廊が廻っていた。
オータンは歴史有る都市で、BC1世紀にローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの勅許によって建設された。当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である。
オータンは歴史有る都市で、BC1世紀にローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの勅許によって建設された。当時の名称はアウグストドゥヌム(Augustodunum, アウグストゥスの砦、の意)であり、現在の市名はこれが転訛したものである。
ナポレオン・ボナパルトと兄ジョゼフはこの地のリセの出身である。
ブーヴレー山。海抜800メートルの山上台地にビブラクテ(ビブラクト)というオッピドゥム(高地性城砦都市)があり、ケルト人のハエドゥイ族がBC2~1世紀に暮らした政治・経済・宗教の一大中心地であった。ハエドゥイ族の文化は鉄器時代後期の古代ケルト文化後期ラ・テーヌ文化に属する。居住人口は5千人から1万人であったと推定されている。
ビブラクテはカエサルのガリア戦記に登場する故地でもある。
BC58年のビブラクテの戦いで、カエサルの軍がビブラクテの南16マイルの地点でヘルウェティイ族を打ち破った。BC52年、ガリア人の英雄ウェルキンゲトリクスはビブラクテでガリア人連合のリーダーとなった。アレシアの戦いでウェルキンゲトリクスに勝利したカエサルが『ガリア戦記』を口述筆記させて完成させたのもビブラクテでのことだった。ローマがガリアを征服して数十年後、25キロメートルほど離れた場所にオータンが建設され、ビブラクテは放棄された。その後居住する者がいなかったため、ビブラクテはそのまま地中に保存され、19世紀になって発掘されることになった。
BC58年のビブラクテの戦いで、カエサルの軍がビブラクテの南16マイルの地点でヘルウェティイ族を打ち破った。BC52年、ガリア人の英雄ウェルキンゲトリクスはビブラクテでガリア人連合のリーダーとなった。アレシアの戦いでウェルキンゲトリクスに勝利したカエサルが『ガリア戦記』を口述筆記させて完成させたのもビブラクテでのことだった。ローマがガリアを征服して数十年後、25キロメートルほど離れた場所にオータンが建設され、ビブラクテは放棄された。その後居住する者がいなかったため、ビブラクテはそのまま地中に保存され、19世紀になって発掘されることになった。
ブーヴレー山への道路。
ケルト文明博物館。ビブラクトの麓に作られた。
博物館にはBC200~100年にガリアのハエドゥイ族がビブラクテを建設する鉄器時代以前の時代から現在の発掘調査の成果にいたるまでの歴史、遺物、遺跡の模型が展示されている。
タクシーは49€だった。14時ごろに迎えに来るように運転手に頼んだ。
博物館にはBC200~100年にガリアのハエドゥイ族がビブラクテを建設する鉄器時代以前の時代から現在の発掘調査の成果にいたるまでの歴史、遺物、遺跡の模型が展示されている。
タクシーは49€だった。14時ごろに迎えに来るように運転手に頼んだ。
ブーヴレー山の航空写真。鬱蒼とした樹林が密生した孤立した山である。
ビブラクテ山上中心部の建物群想像配置立体模型。
ジオラマ。BC2世紀頃のガリア人農家。経済的に豊かな生活を送っていた。外周は柵と溝で囲われている。
ジオラマ。城砦(防御壁)の建設想像風景。カエサルは「ガリア壁」と名付けている独特の構造をしている。丸太を直角に交差させ、釘打ちした四角形の木組みを石積み内部に組み入れて強度を強めている。
城壁を復元した時の写真。
城壁用の鉄釘。入口門付近で出土したものを保存処理している。
鳥形の兜。複製。BC3~2世紀。リモージュ地方ナーヴ出土。
黄金製の威信財。
フィブラ。髪飾り。BC2~1世紀。ビブラクテ、ヌーシャテル(スイス)、オーベルニュ出土。
フィブラ製作設備。青銅用坩堝。作業台。失蝋法で製作。ビブラクテ出土。
動物の頭形の青銅製の柄が付いた鉄製ナイフ。複製品。BC1世紀ビブラクテ出土。
馬具の留め金。鉄製、青銅製。BC2~1世紀。アルマーニュのオッピドゥム出土。
猪の頭の付いた彫刻刀。BC2世紀オーベルニュ出土。
馬具の留め金。鉄製、青銅製。BC2~1世紀。アルマーニュのオッピドゥム出土。
猪の頭の付いた彫刻刀。BC2世紀オーベルニュ出土。
ブーヴレー山麓の博物館近くのネクロポリス(墓域)から出土した陶器類。BC1世紀末。水差し、皿、ゴブレットなど。
飾り付きの鉄剣と人物像。
館内には軽食もないので、売店の自販機で菓子を買った。12時頃まで2時間ほど滞在し、山上のビブラクテ遺跡へ向かった。
館内には軽食もないので、売店の自販機で菓子を買った。12時頃まで2時間ほど滞在し、山上のビブラクテ遺跡へ向かった。