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三重県亀山市 秀吉が2度攻め落とした山城 峯城跡

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峯城想像図(天正時代)。左が北。亀山市川崎町。         (拡大可)
2017522日(月)。
峯城は、鈴鹿川の支流、安楽川と八島が合流する標高85m程度の丘陵上東端部にあり、安楽峠を越えて近江に抜ける街道と城の東方を通り関ケ原に至る街道が交差する要衝の地にあった。
 
中世亀山を本拠とした関氏一族峯氏の居城で、峯氏没落後、天正111583)年と12年に羽柴(豊臣)秀吉により2度にわたり落城した激戦の地となった。
 
峯城は、正平年間(134670)に関盛忠の五男峯政実が築城したと伝えられ、以後峯氏6代の居城であった。
天正2年(1574)、峯八郎四郎(盛祐)が伊勢長島で討死すると、弟与八郎が幼少であったため、織田信孝老臣の岡本宗憲(良勝)が城主になったとされる。その後、織田信雄の家臣となった与八郎も天正121584)年に討死にして峯氏は絶えた。
 
天正11年(1583)正月、亀山城主関盛信が織田信孝にそむいて羽柴秀吉に謁見するため上京した留守に、柴田勝家に与した桑名城の滝川一益は亀山城と峯城を占領し、峯城に3000の兵を与え、甥の滝川儀太夫益重を入れて守らせた。
羽柴秀吉は293万の大軍を引いて北伊勢へ進軍し、滝川方を攻めた。峯城は籠城したが、賤ヶ岳の戦い直前の417日に兵糧弾薬が尽きて降伏開城した。投降した益重を秀吉は召し出して奮戦を称え、感状を与えた。このあとは、織田信雄方の城となり、佐久間正勝に守らせた。
 
天正121584)年、秀吉と信雄・家康が対立した小牧長久手の戦いの前哨戦では、39日から蒲生氏郷・関一政らに攻められ、314日に落城している。天正181590)年、岡本宗憲が亀山城に移されるにあたり廃城にされたと伝えられるが、慶長51600)年まで在地支配の拠点として使われたともされる。
 
峯城跡は、現況では南北420m、東西180mの規模を持つ。本丸は東と南が急崖で、西側から北側にかけて曲尺形に約10mの高さの大土塁が巡る。この土塁の南端に約12m四方の天守台と、北端の曲がり角に櫓台らしきものが残る。
 
伝天守台は石積の痕跡が見られ周辺には瓦が散布していることから、石垣を持ち瓦葺きの建物が存在したものと考えられる。本丸の北にはいわゆる虎口も見られる。
室町末期から安土桃山時代にかけての城郭の姿が良好に遺されており、中世城郭から近世城郭への過渡期の状況がうかがえる全国的にも希少な例である
 
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峯城跡。登城口。
柴崎集落西の市道から西へ入る。南の説明板あたりから登城するルートもあるが、荒れているようだ。「三重の山城ベスト50を歩く」を参考にして、このルートを選択した。
 
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峯城跡。登城口。
 
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峯城跡。かんざし井戸。墓地を抜けると古井戸がある。
 
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峯城跡。かんざし井戸。説明板。
 
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峯城跡。北の郭手前。
 
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峯城跡。北の郭。枡形虎口。
 
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峯城跡。北の郭。枡形虎口の内部。
北の郭は天正の合戦時に増援した武将の陣所であったと考えられる。
 
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峯城跡。西の郭を経て本丸へ向かう。
 
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峯城跡。本丸南端の伝天守台入口。
 
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峯城跡。本丸南端の伝天守台入口。
 
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峯城跡。伝天守台下の石積み。
 
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峯城跡。本丸の曲輪内部。南北約
90m、東西55mの広さがある。土塁で囲まれており、西側は落差7mと高い城壁となっている。
 
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峯城跡。本丸の曲輪内部。
 
本丸から南側は荒れているので、立ち入らなかった。
 
登城口には17時ごろに戻った。これで、史跡旅行の全日程を終え、帰宅の途に着いた。

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