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Channel: いちご畑よ永遠に
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台湾 埔里から廬山温泉(旧マヘボ社)へ オビン・タダオ(花岡初子・中山初子・高彩雲)

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埔里・霧社周辺の地図。清流部落余生記念館。              (拡大可)
2017104日(水)。
霧社事件の概要と写真などの展示は、清流の「清流部落余生記念館」に詳しい。
 
埔里バスターミナルから南投客運1300分発のバスに乗って、霧社経由1410分廬山温泉着のバスに乗った。昼前から雨が降り心配したが、「台湾地理中心碑」の下を通過し、霧社に登って行く途中で止んだ。事件当時、道路が狭くなっていた有名な「人止めの関」は道路脇に碑が残っているだけになっていた。50分ほどで着いた霧社は山間部の狭い尾根状の台地という印象で左右は切り立った崖になっていた。運転手は売店で飲料を買い、連れと飲んで5分ほど休憩したのち、発車した。
 
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春陽部落周辺。旧ホーゴー社。
バスは濁水渓沿いに上流を走って春陽部落を通過した。セデック族の部落旧ホーゴー社である。

有名なオビン・タダオはホーゴー社の頭目タダオ・ノーカンの娘として生まれた。
タイヤル系原住民族は本人の名のあとに、父の名を付ける。

オビン・タダオは霧社公学校4年卒業後、霧社小学校3年に編入されたとき高山初子と名付けられた。埔里小学校高等科2年のとき、同じホーゴー社出身で能高郡警察霧社分室の警手をしていたダッキス・ナウイ(花岡二郎)と結婚して、花岡初子となった。
1930年の霧社事件のときは17歳で、夫の花岡二郎は自殺したが、オビンは生き残り、身ごもっていたアウイ・ダッキス(中山初男)を川中島で生んだ。

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中山清の公医時代の一家。再婚後の娘イワリ・ビホ(中山清子)と。余生館展示。
1932年ホーゴー社出身で2年下のビホ・ワリス(中山清)と再婚。中山清は警手となり、猛勉強の末、乙種医師試験に合格し、公医となった。初子も助産婦となった。
 
日本の敗戦後、オビン一家は清流(旧川中島)へ戻って、医師と助産婦として働いた。名前は中国式にビホ・ワリス(中山清)は高永清、オビン・タダオ(中山初子)は高彩雲、アウイ・ダッキス(中山初男)は高光華と変わった。
 
1951年、高永清は旧能高郡が埔里鎮と仁愛郷に分かれたあとの仁愛郷の郷長に選出され、霧社で勤務した。高永清は5年間郷長をつとめたあと、台湾省議会議員などを経て、霧社診療所の医師に復帰したのち1969年に定年退職した。その後は、夫婦で廬山温泉の碧華荘旅館の経営に専念した。
 
高永清は、省議会議員だった1959年に、旧マヘボ社である廬山温泉に旅館を建てた。当時は、日本の警察が造った温泉付きの保養所を引き継いだ旅館が一軒あるだけで、バスも通わぬ山奥の閑散とした土地だった。
1970年代になると、台湾は高度経済成長期に入り、廬山温泉は台湾有数の温泉地へと変貌していった。
 
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濁水渓を見下ろす。
 
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濁水渓を渡る橋から下流方向を眺める。
14時10分ごろに、廬山温泉のバス停に到着した。

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