廬山温泉と周遊路の案内図
2017年10月4日(水)。
14時5分ごろ廬山温泉のバス停に到着。バス停には廬山温泉と周遊路の案内図、霧社事件関連案内板がある。
中央に塔羅湾溪を渡る吊り橋があり、山の中の遊歩道を登ると、左上方水色部分に霧社事件主導者モーナ・ルーダオの記念碑・廟と、マヘボ古戦場があり、右上方の古戦場歩道を下って吊り橋へ回遊するコースがある。
この図は上部のデフォルメが激しく、回遊コースがある程度にしか役に立たない。
オビン・タダオ(高彩雲・花岡初子)。清流余生記念館。
霧社事件の生き残りであるオビン・タダオ一家が経営していた碧華荘旅館がどういう状態かに関心があった。オビン・タダオ夫婦が亡くなり、オビンの息子アウイ・ダッキス(高光華)も亡くなったので、経営権を他人に譲った。その後継の廬山碧華温泉会館も今は閉館して、廃墟になっているとはネットに書いてあった。
2000年代初めに、高彩雲の伝記映画「風中緋桜」が公共電視(NHKに相当)で20回の連続ドラマとして放送された。
廬山温泉街自体も水害常習地区なので全面移転を勧告されていることも知っていたので、温泉街がどうなっているのかも気になった。
廬山温泉案内図。 (拡大可)
廬山碧華温泉会館は吊り橋を渡った右側にあり、地図番号は53番になる
地図番号53番は碧華大飯店となっている。
廬山温泉は塔羅湾溪と馬海僕渓の交点に位置し、海抜1300メートルと台湾でもっとも標高の高い所に位置する温泉街である。
台湾民主化後に発生した温泉ブームの中で「天下第一泉」と呼ばれ人気を集めたが、2008年に発生した水害で大きな被害を受け、温泉街自体が山崩れに巻き込まれる可能性があるとして南投県政府により温泉街の廃止と住民の移転が進められている
廬山温泉の一帯はもともとセデック族マヘボ社の支配下にあったため、始めはマヘボ温泉と命名されていた。
マヘボ社は霧社事件の首謀者、モーナ・ルーダオが支配する蕃社だったこともあり、観光地化は遅れ、温泉の本格的な開発が始まったのは1940年ごろからである。
マヘボ温泉は温泉地の西側に見える山(馬海僕富士山)の形が富士山に似ていることから、富士温泉と改名され、明治温泉(現谷関温泉)、桜温泉(現春陽温泉)と共に中部の3大温泉といわれた。
1942年能高郡の警察課長がこの地を視察した際、この温泉を非常に気に入り、警察招待所を作った。
1950年に時の総統蒋介石がこの地を訪れ、周囲を山に囲まれた風景が中国大陸の廬山に似ていることから廬山温泉と改名した。蒋介石はこの地を気に入り、別荘を建て度々訪れたという。
2008年9月の台風第13号により多くのホテルが水没・倒壊するなど大きな被害を受け、翌年8月の水害でも甚大な被害を受けた。
2011年6月、南投県政府が温泉街を現在地より36キロメートル離れた埔里鎮復興里への移転を決定し、2012年5月南投県政府が温泉街の廃止を告知した。同年6月には再度水害で再び甚大な被害を受けた。
ただし現在でもいくつかのホテルやレストランなどの営業が継続されている。
マヘボ部落の案内板。左側。
マヘボ部落の案内板。右側。
マヘボ部落の案内板。1930年。日本軍警察の攻撃を受けたときのマヘボ社。
マヘボ部落の案内板。廬山温泉。全景写真。
モーナ・ルーダオ(莫那魯道)の案内板。マヘボ社頭目。
1930年10月27日の霧社事件の紹介。
ちなみに霧社事件を描いた映画「セデック・バレSeediq Bale」は旅行前にyou tubeで原語版を見た。縮約版か。中国の抗日映画と同じで、日本軍が弱弱しく描かれているのは、ご愛嬌。
廬山温泉の旅館街。バス停から数分歩く。旅館・食堂・売店は多くが営業している。客は昼は少ないが夕方になるとマイカーでやってくる。
中央の山麓にマヘボ社があったようだ。
廬山吊り橋。もちろん現代的で立派な歩行者用となっている。
旧碧華大飯店を廬山吊り橋から眺める。左が崖屋になっており、オビン・タダオが住んでいた部分かと、感慨にふける。
旧碧華大飯店を廬山吊り橋から眺める。碧華温泉会館の看板が見える。営業はしていないが、廃墟にはなっていない。
塔羅湾溪沿いに営業しているホテルもいくつかあり、夏は避暑地、冬は湯治場として人気を誇った大温泉街の片鱗は残っている。
しかし、水害が起こる地形ということは良くわかった。
吊り橋を渡り、右に歩いて、旧碧華大飯店の中に入れるかと探ったが、塀のため無理と分かり、霧社事件マヘボ古戦場へのルート案内を乞うため、左側にある警察署を尋ねることにした。