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Channel: いちご畑よ永遠に
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台湾 埔里 強制移住後のセデック族の村 清流(川中島部落)へ 壁画

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埔里(プーリ)バスターミナル。
2017105日(木)。
本日の予定は、午前中に、霧社事件後にセデック族反乱蕃社が強制移住させられた清流(チンリョウ)部落(旧・川中島)、午後は霧社事件の現場である霧社の見学。
結果的に、霧社には見所は少なく、早めに埔里へ帰って、市内の酒廠を見学した。
 
旅行前に南投客運のHPでバス時刻表を見て、埔里600分発の眉原行きバスで清流着645分頃、1215分頃発で1300分頃に埔里へ帰り、1300分発の廬山行きバスで霧社へ行き、1630分頃のバスで埔里へ帰る行程を計画していた。
 
埔里から眉原(または惠蓀林場)へのバスは少ない。埔里と霧社間のバスは1時間に2本ほどあるし、霧社は各方面へのバス中継地のため実際にはもっと頻繁に運行していた。
 
台湾のバス時刻表は始発と終点の時刻しか表示されないことが多い。主要な途中のバス停は表示されることがあるが、その他の途中バス停は類推するしかない。
埔里から清流部落までは45分と推測し、ほぼその通りだった。
 
埔里から眉原のバス路線は南投客運の創業者アウイヘッパハが初めて開設した路線である。
アウイヘッパハはセデック族ホーゴ社頭目の家に1916年に生まれた。日本名は田中愛二、中国名は高愛徳。強制移住された川中島では青年団長となり、戦後は南投客運の経営者として南投県議員を16年務めた。霧社事件のときは少年で、蜂起を知らされていなかったが、運動会に参加していたその場で、日本人襲撃に加わった。
 
ゲストハウス「永樂園青年旅館」で515分頃に起きて、ラウンジでコーヒーを飲んでから、コンビニのおにぎりを食べながら10分余り歩いて、夜明け前の埔里バスターミナルに553分ごろ着いた。
 
国光客運の看板が出ているが、実際には南投客運の埔里の郊外バス路線ターミナルとなっている。
路線で一番多いのは台中行きで、20分に1本ほど出発していく。
 
ところが、眉原行きのバスがちっとも来ない。630分になっても来ないので、心配になり、整理係の女性職員に尋ねた。すると、横の出札所の女性職員に尋ねてくれると、車両故障で遅れているという。昨秋のように、原付バイクでも借りてでも清流に行かねばならないのかと思ったが、いつ来るのと尋ねると、あと10分ぐらいです。すいません、と日本語で答えた。
 
眉原行きのバスは650分頃に到着し、すぐに発車した。1人の女性も乗車したが、途中で下りた。途中で女性が乗車した。小一時間もよく待っていたなと感心したが、遅れるのは普通かもしれない。その女性も降りて、山間部へ昇る途中から乗客は私一人になった。
 
清流(川中島)は、埔里から北の山間部を越えて、北港渓という川を渡った場所にある。

193156日、霧社事件反乱蕃社のセデック族の生き残り(余生者)282人は霧社周辺の収容所から川中島へ強制移住された。
早朝、霧社周辺の収容所から眉渓まで6㎞歩き、トロッコ列車で昼ごろ埔里に着いた。市内を歩いて、台湾製糖会社の汽車で小埔社まで行き、あとは徒歩で大平頂という峠を越えて、土砂降りの雨の中、日が暮れるころ北港渓にかかる橋を渡って川中島に着いた。
 
その移住の話を思い起こしながら、バスに乗っていた。車なので楽に坂道を昇るが、徒歩では大変だったろう。峠から舗装道路を下り、はるか下に北港渓が見えてきたが、バスはなぜか左の脇道へ入っていった。これが、旧道(長北路、梅暦地区)だったのだろうか。幹線道と合流すると、幹線道沿いの北港村に着き、バスは方向転換し、元の向きに戻って走りだすと、すぐ近くのバス停で停まり、乗り込もうとした男子小学生に、このバスは往きのバスと運転手は伝えて、そのまま清流方面へ進んだ。
 
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清流部落バス停。南の川の方向。
道路左に川越しに清流部落が見え、橋を渡って、部落の中に500mほど入った広場横にある清流部落のバス停に停車し、735分頃下車した。5人ほどの男女の小学生が乗りこもうとしたが、往きの車だといわれて、そのまま待つことになった。
 
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清流部落バス停。南の川の方向。
バス待合所は民家の建物の上屋の部分にあり、ベンチがある。左は日曜市で休日には村の特産物を売る場所のようだ。
清流では食堂はあるが、売店やコンビニは見かけなかった。
 
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散策案内図。清流部落バス停。               (拡大可)
ルートは逆三角形になっている。左上に「余生記念館」、右上の右欄外に「高永清・高彩雲の墓」がある。
 
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清流公約。清流部落バス停。                (拡大可)
昭和10年代、20年代の日本のようだ。
 
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川中島・清流部落。霧社事件関連地共通の案内板。
現在は仁愛郷互助村という。余生者298名が193156日に川中島へ強制移住させられたと書いてある。
 
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バス停前広場から北の余生記念館方向へ歩く。
 
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互助村清流活動センター。ビルの壁画。モーナ・ルーダオのようだ。
 
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互助村清流活動センター。
750分ごろだったので、開いていない。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。織物。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。杵つき。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。魚や鳥の獲物。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。イノシシ猟。
 
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互助村清流活動センター。北広場の壁画。イノシシ?。
 
東の余生記念館へ向かう。

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