互助村清流活動センターから北西へ歩くと、一段高い台地に広場と記念館が見えてきた。
右に東屋があり、眼下に清流部落を見下ろすことができる。
1932年5月6日に、セデック族反乱蕃社の人々は霧社の収容所から清流部落に移住させられた。
高永清が仁愛郷の郷長であったとき、川中島神社の旧址に碑を建立した。
前面には日本風の灯籠。
背後の壁面にはセデック族風俗の壁画。壁画右面は、銃と弓の狩猟が描かれており、霧社時代の風俗のようだ。
8時だったので、まだ開いていないかと思ったら、扉の鍵は外されており、展示室に入ることができた。無人だが、誰かが管理しているようだ。照明は客が自らスイッチで点灯する方式になっている。
1999年9月の921大地震の復興事業として建設された。
霧社の故地。霧社周辺にはタイヤル族、セデック族、ブヌン族が暮らしていた。
左上に川中島、左下に日月潭、左中央が埔里。中央が霧社。右欄外の花蓮港は意外と近い。
セデック族の一派は花蓮港に移住していた。