清流部落余生記念館へ。2017年10月5日(木)。
互助村清流活動センターから北西へ歩くと、一段高い台地に広場と記念館が見えてきた。
清流部落余生記念館。
右に東屋があり、眼下に清流部落を見下ろすことができる。
「霧社事件 餘生記念碑」。民国39年(1950年)5月6日。陳鳴寮。
1932年5月6日に、セデック族反乱蕃社の人々は霧社の収容所から清流部落に移住させられた。
高永清が仁愛郷の郷長であったとき、川中島神社の旧址に碑を建立した。
前面には日本風の灯籠。
背後の壁面にはセデック族風俗の壁画。壁画右面は、銃と弓の狩猟が描かれており、霧社時代の風俗のようだ。
「霧社事件 餘生記念碑」の左側。
壁画。左面は、清流部落での生活を描いているようだ。口琴を弾く女性。
壁画。農耕風景。
余生記念館。2階建て。1・2階に写真や説明などが豊富に展示されている。
8時だったので、まだ開いていないかと思ったら、扉の鍵は外されており、展示室に入ることができた。無人だが、誰かが管理しているようだ。照明は客が自らスイッチで点灯する方式になっている。
1999年9月の921大地震の復興事業として建設された。
余生記念館沿革。行政院文化建設委員会。
開墾風景。マラリアに苦しめられた。
霧社の故地。霧社周辺にはタイヤル族、セデック族、ブヌン族が暮らしていた。
霧社群。
人止めの関。
霧社周辺の地図。 (拡大可)
左上に川中島、左下に日月潭、左中央が埔里。中央が霧社。右欄外の花蓮港は意外と近い。
セデック族の一派は花蓮港に移住していた。
地名対照表。観光地として人気のある清境農場は見晴部落であった。
セデック族。「ガヤ」という言葉は祖先の教え、掟など様々な意味があり、思想の核心的な言葉であった。写真は見張塔。
首棚。宗教的な意味があった。
口琴を奏でる少女たち。