霧社史話。深堀事件、人止関事件、姉妹原事件、薩拉矛(サラマオ)事件。
清流部落余生記念館。2017年10月5日(木)。
「証言 霧社事件」許介鱗の解説およびアウイヘッパハの談話より。
台湾総督府は1895年「官有林野及製造取締規則」第1条「所有権を証明すべき地券又はその他確証なき山林原野は総て官有とす」という無主地=国有地の原則を示した。
山地の人々に地券などあろうはずがないことを、日本は百も承知なのにである。
山地開発という美名のもとに、山地人の半農半猟の生活様式を変えさせて、山地人を土地から追い出して、農民と化し、広大なる山地を国有地としてそっくり頂戴しようというのである。
山地の人々の祖先伝来の土地を侵犯し、樟木を強奪をせんとする者に対しては、死をもって報いた。「出草」という首狩りの殺人行為は侵略者に、容赦なく加わえられる。
理蕃政策の要は、いかにして山地人の武装解除をなして、その土地を奪うかにあった。
1899年総督府法制局参事官石塚英蔵により、樟脳の専売制度と隘勇制度が導入された。
1897年深堀大尉探検隊遭難事件。深堀探検隊の任務は、霧社から東部へ抜け出る最短距離道路の発見にあった。深堀大尉一行8人は霧社からタウツア、トロックへ入ったが、トロックのサード社で首を狩られた。深堀は交易のために入山してきたのではなく、敵情スパイのために入ってきたからである。)
1902年4月、人止関で埔里社守備隊の中村幸十郎の率いる赤帽子の隘勇隊が200人の霧社人と交戦、撃退される。
1903年10月6日、ブヌン族千卓万社と霧社の境界にある姉妹ヶ原で南投庁当局にそそのかされた千卓万社人は宴会を開いて招いた霧社人パーラン社・ホーゴ社・ロードフ社の壮丁150人を泥酔させたうえで襲い、130人を殺した。
霧社のセデックの勢力が衰えたので、このあと、総督府側は山砲を持ち込んで、霧社制圧作戦を進めた。
1906年5月31日、霧ヶ関中央隘勇監督所で霧社12社の帰順式が挙行された。帰順条件は、官命の絶対遵守であった。条件の一つは銃弾の提出であった。提出に応じない者や、官命に抗した者は、みな見晴死刑場に連れていって殺した。銃弾を隠していることが発覚した場合は、その家を包囲して、一家もろとも焼き殺してしまった。霧社事件で扇動的役割を担った青年たちは、こうして家族を殺された遺族たちでる。
1908年、霧社に蕃務官吏駐在所ができる。
1914年、霧社は佐久間総督の太魯閣社討伐の基地となる。
1920年、薩拉矛(サラマオ)事件。台中州梨山のサラマオ蕃が武装蜂起。
スペイン風邪の流行は山地道路網の発達が原因。
霧社総頭目モーナルーダオはサラマオ蕃の武装蜂起に乗じて反乱を画策したが、蕃通巡査により発覚し、未然に防がれた。
当局は蜂起計画者たちをして「味方蕃」を組織して、サラマオ討伐の奇襲隊とした。パーラン社、ホーゴー社、マヘボ社を主力とする霧社の壮丁が動員されてサラマオを攻撃。禁止していた出草を許可し、敵蕃の首に値を付けて狩らせた。
1920年、薩拉矛(サラマオ)事件。味方蕃襲撃隊。霧社支庁前広場、敵の首級25個。
日本軍の山砲。
日本軍の山砲。
霧社抗日事件の遠因。
和蕃婚姻政策。パーラン社頭目の娘イワリローバオとホーゴ社頭目タダオノーカンの娘オビンノーカンは近藤勝三郎と結婚。マヘボ社頭目モーナルーダオの妹テワスルーダオは勝三郎の弟儀三郎と結婚。マレッパ社頭目の娘ペッコタウレは下山治平と結婚。マシトバオン社頭目の娘ヤワイタイモは霧社分室主任佐塚愛祐と結婚。サラマオ社頭目の娘リットクノーミンは下松仙三郎と結婚。
近藤兄弟は二人とも山地の妻を捨てている。テワスルーダオは夫が行方不明になって、戻ってきた。
霧社警察官吏駐在所前のセデック族女子。
大正初期霧社支庁の理蕃幹部。
埔里社分遣隊本部。