霧社抗日事件の近因。
清流部落余生記念館。2017年10月5日(木)。
1930年10月27日に起きた霧社事件のきっかけは、原住民に役所・学校などの建築工事、道路や橋の土木工事の苦役を課したこと、賃金を巡査がピンハネしたことにあった。
また、10月7日マヘボ社での結婚前祝いの宴会に通りがかった日本人巡査にマヘボ社頭目の息子タダオモーナが血染めの手で酒と豚肉差し出したところ、セデック族の風俗習慣に慣れない巡査がステッキで叩き落としたため、タダオモーナが巡査を殴打した事件が起きた。当局はモーナルーダオの処分を検討し、モーナルーダオもそれを察知した。
土木工事の例。現在の雲竜橋の前身の斯克(スーク)吊橋。ホーゴ社からマヘボ社へ至る道路の中間地点。
理蕃幹部。
大正時代の霧社支庁理蕃幹部。
霧社事件関係図。 (拡大可)
赤枠が蜂起した部落。右から、マヘボ社、ボアルン社、スーク社、タロワン社、ホーゴ社、ロードフ社。
「証言 霧社事件」許介鱗の解説およびアウイヘッパハの談話より。
セデック族霧社総頭目モーナルーダオらは、1920年以前から反乱蜂起を計画していた。
1930年7月から始まった霧社小学校寄宿舎新築工事にさいして、霧社分室当局はモーナルーダオへの圧迫の意を含めて、工事用木材をマヘボ社の狩猟地ウツウチック山(マヘボ富士)から伐採させ、重労働である木材の担送を「不良蕃」の多い霧社人に命じ、軽労働をタウツア社・トロック社にやらせた。賃金についても、タウツア社人には与えたが、霧社人には未払いであった。
セデック族は坂を下るときは材木を引きずって運ぶが、日本人の巡査はヒノキ材に傷がつくとカンナがかけられないと言って、霧社までかついで運ぶように命じた。畑作もできずに、木材搬送に使役された霧社人はマヘボ社のモーナルーダオのところによって不満を漏らした。
霧社抗日事件。
1930年10月27日、北白川宮の霊を祭る台湾神社の祭典日に霧社公学校で開催された霧社周辺の児童の合同運動会が開催された。午前8時の開始とほぼ同時に、霧社人が襲撃し、日本人老若男女134人を殺害し、26人に重軽傷を負わせた。
蜂起には6社の壮丁約350人のほかに、他の蕃社からも約200人が参加した。
襲撃した駐在所と時刻。
霧社事件で蜂起蕃社が略奪した銃器180丁と銃弾23037発の内訳。
前年1929年10月27日の運動会風景。
事件後の霧社児童合同運動会場。
左手に死体を焼く木材が積まれている。
事件後の霧社児童合同運動会場。
事件後の霧社分室。
霧社事件関連図。 (拡大可)
霧社セデック族各部落の人口。
余生者後裔から先祖への祈祷文。