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台湾 埔里 清流部落余生記念館 霧社事件後のマヘボ制圧戦 モーナ・ルーダオの遺骨

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大軍圧境、血洗霧社。
清流部落余生記念館。2017105日(木)。
台湾軍司令官渡辺錠太郎は、蜂起参加者約500人とされる霧社事件を単なる蕃害とはみとめず、日本帝国への反乱とみなして、迅速な軍事行動による鎮圧策をとった。
総督府はただちに、屛東の飛行第八連隊の飛行機を霧社の上空に飛ばし、霧社四周の縦横断道路に軍警部隊を行進させて、まず周囲の制圧に努めた、
霧社人たちは、埔里を制圧するつもりだったが、埔里はいち早く日本側の制圧拠点となった。
台湾各地から、軍隊1563人、警察1231人、人夫1381人、合計4175人の日本軍警が出動し、山砲・機関銃などの新兵器、飛行機による爆撃と毒ガス投下など、大規模な討伐をおこなった。
 
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出動した日本軍警幹部。
 
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霧社方面へ進攻する日本人部隊。
 
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台北機関銃隊の曲射砲。マヘボ高地の塹壕からマヘボ岩窟を砲撃。
 
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埔里の飛行場。
軍当局は将来の予行演習として、埔里の飛行場から飛ばした飛行機から有毒ガスのホスゲン、ルイサイト、催涙ガス、焼夷弾を投下した。ダムダム弾による創痍の人体実験もおこなった。
 
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日本軍部隊別人員表。
 
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警察隊人員表。人夫人員表。
 
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タロワン戦線とマヘボ戦線。
ホーゴ社頭目タダオ・ノーカン(オビン・タダオの父)はタロワン社のタロワン台地を守備し、mヘボ社頭目モーナ・ルーダオはマヘボ戦線で戦った。
 
日本軍警の目的地はマヘボであり、松井大隊は、ロードフ社、ホーゴ社、スーク社からマヘボへ進撃した。
 
それとは別に、1031日、永野部隊は濁水渓を渡ってホーゴ社の対岸にあるカッツク社を攻め、タロワン台地へ向かった。
タロワン台地は三方を渓谷に囲まれて、眺望のきく台地であった。タダオ・ノーカンたちが進攻する永野部隊に銃弾を浴びせると、苦境に陥った永野部隊を救援するため、松井大隊がスーク台地から方向を転じて、濁水渓を渡りタロワン台地へ進撃した。
 
日本軍はタロワン台地の陣地まで50mと迫りながらも撃退され退却した。しかし、先頭に立って指揮したホーゴ社頭目のタダオ・ノーカンは、敵弾の的になって真っ先に戦死した。
だが、その夜タロワン台地は、ホーゴ社人が森で休養しているすきに、日本軍に占領されたしまった。
 
タダオ・ノーカンは親日派として知られていた。兄で頭目だったボホク・ノーカンは、猟の帰りに駐在所で警官に呼び止められ、酒を飲んで帰るとき、タイヤル語で充分に満足したという意味で「バカ」と言った。警官たちは誤解して腹を立て、ポホク・ノーカンは殴打され、一週間後に染んだ。
兄を継いだタダオ・ノーカンは復讐しようという部落民を制止した。性格が温和で、警察とも仲良くやっていた。
 
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花蓮港庁警察部隊の機関銃。
 
111日、マヘボ社への総攻撃が始まった。しかし、峻嶮な山地を知り尽くした霧社人に日本軍警は苦戦し、クルフカッフルでは、シベリア帰りの英雄である荒木中尉がボアルン社のチリパワンにより、首を狩られてしまうような事態に陥った。112日、飛行機と山砲による攻撃により、花蓮港部隊がマヘボ社を占領し、霧社人は貯蔵しておいた大量の弾薬・食糧を失った。
 
マヘボ周辺の要地は日本軍警に制圧され、霧社人たちはマヘボ岩窟に追い込まれていった。
114日、マヘボ岩窟に籠もって指揮をしていたモーナ・ルーダオは、日本軍警に周囲を包囲されことを悟り、長男のタダオ・モーナに頭目の座を譲って、自決する決意をした。
モーナ・ルーダオは一族が避難していた耕作小屋に赴き、一族に死を命じた。命令に背いた者は、鉄砲で撃ち殺し、死体は火を放って小屋ごと焼き払った。ただ一人、娘のマホ・モーナだけは死を恐れて逃亡し、日本軍に投降した。
モーナ・ルーダオは、険しい岩壁を攀じ登り、狭い岩陰に入り、鉄砲で撃って自殺した。
 
115日、マヘボ岩窟を見下ろす要地ブットツの戦いで、霧社人たちは日本軍警を撃退して、戦闘は一時停滞した。
 
117日から日本軍警は、飛行機から毒ガス弾を投下し、投降勧誘ビラを空中から配布した。毒ガスを吸った霧社人たちは苦しんで、首つり自殺するものが続出した。
 
1118日、日本軍警は味方蕃をともなって、マヘボ岩窟に総攻撃をかけた。1127日、タダオ・モーナは残った霧社人たちに解散を命じた。ゲリラ戦を展開したタダオ・モーナは、妹のマホン・モーナに投降を勧められたが、拒否して首を吊った。128日に日本軍警がタダオ・モーナの縊死体を発見して、ようやく日本軍警の霧社制圧戦が終了した。
 
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投降勧誘ビラ。
 
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マヘボ岩窟を砲撃する山砲。
 
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モーナ・ルーダオの略伝。
 
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中央がモーナ・ルーダオ。
 
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マヘボ岩窟の住居。
 
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モーナ・ルーダオの遺骨。
1933年に入山した猟師により発見され、川中島に遺骨と遺品が送られ、娘のマホン・モーナがモーナ・ルーダオ本人と確認した。能高郡役所新庁舎落成時に公開展示されたのち、台北帝大の土俗人種学研究室に移され、のちに医学部の標本として保管され、その後長く忘れられていた。現在は霧社に埋葬されている。
 
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モーナ・ルーダオの肖像入り
20元硬貨。2000年。

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