「備前 浦上氏」中世武士選書12 渡辺大門著 2012 戎光祥出版
浦上氏と播磨国浦上荘。たつの市揖保川町。鎌倉末期、元弘3(1333)年、後醍醐天皇の綸旨により、浦上荘が大徳寺に与えられた。大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)は父が浦上一国、母が赤松円心の姉であったという。建武元(1334)年、浦上荘の地頭職は浦上為景に与えられた。
足利尊氏方、赤松則祐の配下に浦上景嗣、浦上行景。(太平記)。
貞治元(1361)年、備前国守護松田氏の配下に浦上行景。
播磨国大徳寺如意庵領小宅荘と浦上景佑。祖父の宗覚は大徳寺の塔頭徳禅寺の開山・徹翁儀享と交渉。三職を預けられる。
備前国大徳寺如意庵領磯上保。瀬戸内町長船。浦上景佑の根本所領。
貞治6(1367)年、備前国守護赤松則祐の守護代として浦上行景。
応安3(1370)年、備前国守護代として浦上宗隆。
応安7(1374)年、備前国守護代として浦上助景。
応永4(13979年、播磨国守護奉行人として浦上助景。
応永23(1416)年、備前国守護代として小寺伊賀入道。
侍所所司代。浦上美濃入道。浦上美作入道性貞。
長禄3(1459)年、浦上則宗。加賀半国守護赤松氏の筆頭奉行人。赤松政則は幼少、則宗が実務。
文明3(1471)年、浦上則宗。侍所所司代。
浦上則宗。在京して守護を支え、備前国内に一族を配置し、実質的に支配下に収めた。
文明15(1483)年、浦上則宗。山城国守護就任。有力守護が断ったため。
文明15(1483)年、山名氏が播磨へ侵攻。赤松氏敗退。浦上則宗らが赤松政則に背く。
文明16(1483)年、浦上則宗は有馬澄則を擁立し、山名氏を攻撃。山名氏に敗北。赤松政則は別所則治に援助され、足利義政から三ヶ国守護を復活される。浦上則宗も従う。
長享2(1488)年、赤松氏が山名氏に勝ち、三ヶ国を確保。別所則治は東播守護代に就任。
明応5(1496)年、赤松政則の死。播磨国内の騒乱。赤松義村を推戴する浦上則宗、播磨北部に基盤を持つ赤松大河内家、別所則治。の三者が対立。
浦上則宗と在地の赤松氏被官人との軋轢が表面化。
文亀2(1502)年、浦上則宗の死。
浦上則宗は守護代ではない。守護代は播磨は龍野赤松氏と別所氏、備前は浦上氏、美作は中村氏。浦上則宗は赤松家の家宰。幕政と深いつながりがあった。則宗は寺社本所領という幕府の方針を順守し、他の有力被官人と対立。
永正5(1508)年、浦上村宗。備前国守護代浦上宗助の子。
浦上村宗は播磨国では赤松義村に重用されず、小寺則職と対立し、その座を小寺則職や赤松義村の組織した三奉行の櫛橋、衣笠、志水氏に譲らざるを得なかった。
そのため備前国に基盤を求めたと考えられる。備前では浦上村宗が判物を発給し、支配していた。
永正16年、赤松義村は不忠の讒言を受けた浦上村宗の出仕を停止し、居城三石城を攻撃するが敗北。
永正17年、赤松義村は浦上氏の被官人中村氏の居城美作岩屋城を攻撃する。宇喜多能家軍が赤松軍に勝利し、小寺則職父子は自害。赤松義村は敗北。
赤松義村は洞松院尼らに見捨てられて失脚、義村の子政村は村宗が引き取り傀儡化を策す。
赤松義村が保護していた足利義晴は細川高国の依頼により浦上村宗の手に渡り上洛した。
大永元(1521)年、赤松義村は浦上村宗の手勢により殺害された。
大永2年、浦上村宗への反撃。赤松村景(村秀の弟)、浦上村国、小寺村職が但馬の山名誠豊と連動し播磨へ侵攻。小寺村職と別所村治(則治の孫)が浦上村宗軍を破る。山名氏は播磨に駐留し、鵤荘で兵糧米を徴収。
大永3年、浦上村宗は幕府から白傘袋、毛氈鞍覆の使用を許可され、守護並となる。浦上村宗は山名軍に勝利し、播磨国を平定。室津に播磨での拠点を置く。
大永6年、細川高国が被官人の香西元盛を暗殺し、騒乱となる。細川晴元と三好元長が入京し、足利義晴は朽木谷へ逃げた。細川高国は浦上村宗を頼る。
播磨では浦上村宗・赤松村秀(龍野)のグループと別所氏・小寺氏の東西陣営に分かれ争う。
享禄2(1529)年、浦上村宗は播磨の小寺・別所氏を撃破し、摂津へ進軍する。
享禄3年、赤松政村が細川晴元側に寝返り、浦上村宗を摂津天王寺で討つ。
享禄4年、浦上氏残党が赤松政村の英賀館を攻撃し、赤松政村は明石へ逃げる。
天文5(1536)年、赤松政村は浦上氏残党と和睦し、播磨を支配。
浦上政宗(村宗の長男)。叔父の国秀による浦上氏の統率・支援体制。
天文7年、尼子氏の播磨侵攻。播磨では別所村治のみ抵抗し、赤松政村は淡路へ逃げる。赤松政村は晴政と改名。
浦上政宗は赤松氏からの主従関係を脱し、同盟関係へと移った。播磨国西部に地歩を固めた。
室津・高砂・姫路といった交通の要衝地に勢力を広げた。
備前では金川の松田氏、旭川沿いの税所氏、平井氏と同盟。
天文20年以降、尼子氏の勢力が美作・備前国方面に及ぶと、政宗は弟の宗景との関係が悪化する。
浦上政宗は尼子晴久と同盟、浦上宗景は毛利氏と結んだ。
永禄3(1560)年頃を境に浦上政宗は衰退し、毛利氏と結んだ浦上宗景の威勢が伸長する。
永禄5年以降、美作の諸勢力は毛利氏方に転じる。
永禄7年、浦上政宗は毛利氏と同盟を結んだ龍野赤松政秀によって暗殺される。
浦上宗景。政宗の弟。浦上宗景は吉井川沿いの勢力を傘下に置いた。天神山城。家臣。大田原氏、服部氏、岡本氏、日笠氏、明石氏、延原氏。家臣団というよりは同盟者。恩賞地の不足が宗景への不満となる。
所領安堵の主体者となるとともに、新たに知行地を与える存在であったために、盟主となった。渋谷氏・馬場氏・額田氏の例。
尼子氏の美作国支配。天文年間から、西部の三浦氏、東部の江見氏を配下に収める。
宇喜多直家との抗争と浦上一族の滅亡。
謀略家・宇喜多直家の上洛。織田信長への帰順。
元亀2(1571)年、浦上宗景と宇喜多直家は協力して備前児島の毛利勢を攻撃。浦上宗景と宇喜多直家両者はほぼ対等の関係に近かった。
大友氏と抗争する毛利氏の依頼を受け、足利義昭の勧めで、三者は和睦。
天正元(1573)年浦上宗景は織田信長から「播備作之朱印」を与えられ、三ヶ国の支配を任された。
天正2年、宇喜多直家は浦上宗景と決別。両者は各地で戦闘態勢に入った。宇喜多直家が優位に立つ。浦上宗景は中小の領主層から支持を得られず、離反が相次ぐ。
天正3年、天神山城が落城。浦上宗景は没落。播磨へ逃げる。
浦上宗景は一時的に中小領主層の盟主的存在であったに過ぎず、大名権力・大名領国を形成していたとは言い難い。