宇喜多氏は戦国の梟雄か。海音寺潮五郎「悪人列伝」(S57年)に小悪党として描かれる。
備前・美作は境目の地と言われ毛利氏・織田氏他の強大な勢力に脅かされていた。また国内の中小領主層も侮れない存在であった。そのため宇喜多氏は、絶えず周囲の勢力に配慮をする必要があったのである。
宇喜多氏の出自。「蔭涼軒日録」の明応2(1493)年に赤松氏に関連して浮田氏の名前がある。
「宇喜多能家寿像画賛」。大永4(1524)年、南禅寺の僧九峰宗成の賛。百済王の裔で備前児島の三宅氏の出身と記す。各種の説あるが不明。児島地域を出自とし、経済的基盤としたとはいえる。
西大寺文書。文明元(1469)年に宇喜多寶昌の寄進状。宇喜多氏の先祖。金岡東荘。文明9年に邑久郷の寄進状。現在の岡山市東区地域の富裕な有力者。
金岡東荘は現在の西大寺辺り。港市、商工業盛ん。
宇喜多宗家。寶昌の子か。浦上氏の配下・影響下。被官ではない。豊原荘邑久郷にも勢力基盤。
宇喜多久家。宗家の子か。
宇喜多氏。瀬戸内海を舞台に流通に関わる商人的な領主。基盤を金岡東荘に移す。浦上氏と緩やかな連携を保っていた。
宇喜多能家。明応6(1497)年、浦上宗助の松田氏方富山城攻撃に参加。明応8年浦上則宗が同族の浦上村国に攻められ、播磨白旗城へ逃げたときに助ける。
永正16(1519)年、赤松義村は浦上村宗の居城三石城を攻撃するが敗北。永正17年、赤松義村は浦上氏の被官人中村氏の居城美作岩屋城を攻撃する。宇喜多能家軍が赤松軍に勝利し、小寺則職父子は自害。赤松義村は敗北。
享禄4(1531)年、細川高国軍の浦上村宗が赤松政宗の裏切りにより、敗死する。
天文3(1534)年、宇喜多能家は浦上村宗の家臣嶋村豊後守に居城の砥石城を襲われ、自害。子の興家は逃亡。
宇喜多興家。凡愚の評価。興家と長子の直家は備前福岡に隠棲。豪商阿部善定の娘を娶り、忠家らが生まれる。
宇喜多直家。「甫庵太閤記」の評価。知力があり、損得に敏感。毛利を捨て秀吉方に付く。斉藤道三、松永久秀と並ぶ悪人。浦上宗景、中山備中守、後藤氏を謀殺。「義も露ほども知らず」。
土肥実平「備前軍記」。虚実入り混じる内容。
一次史料では弘治3(1557)年から登場。軍記によると、天文13(1544)年、元服して浦上宗景から邑久郡乙子城を与えられる。
天文20年、直家は浦上宗景の命により、中山備中守信正の娘を妻とする。中山氏は居都荘(岡山市東区)の代官であり、沼城を本拠としていた。
永禄2(1559)年、直家は浦上宗景の命により、中山備中守を謀殺。酒に酔わせて相手を討つ。
浦上宗景とは対等な同盟関係。軍事的な従属レベル。
天正3年10月宗景の天神山城は落城。
天正7年、直家は毛利方から織田方に転じる。羽柴秀吉の取次。
宇喜多秀家。
天正10(1582)年2月備前児島付近の八浜合戦。毛利軍に敗北。秀吉軍が姫路から岡山へ進出。
備中国守護代石川家。毛利氏と結んだ立石城主石川久智の配下であった備中高松城主清水宗治。
秀吉の養女豪姫と結婚。
宇喜多氏の動員力。慶長3年大名帳によると47万4千石。おおむね1万5千人から2万人。
家臣団。戸川氏、岡氏、長船氏、明石氏、宇垣氏、花房氏ら。自立した中小領主層の寄せ集め。
戸川達安。文禄3年の知行地の判物。宇喜多秀家の判物に豊臣秀吉の袖判が添えられている。
慶長5(1600)年の家中騒動。
検地への不満説。家臣への所領加増のため検地。在地の土豪・百姓から反発。
秀家・新興家臣層が推す豊臣側と戸川達安らの家臣層が推す家康側との対立説。
事件処理は徳川家康に有利。
五大老の順位。慶長4年。徳川家康、宇喜多秀家、毛利輝元、上杉景勝、前田利長。
関ケ原の戦い。牢人を集める。家臣団に信頼を置けなかった。宇喜多軍はまとまりがなかった。