2013年2月19日(火)。オーロラ見物も全日程を終了し、本日の深夜20日午前1時30分にフェアバンクス空港から帰国の途に着く。昼前に起きてから夕方まで観光の時間があるので、アラスカ大学博物館を見学することにした。前日にホテルに市内送りを頼んでいたが、ようやく13時過ぎにベルマおばさんが車で送ってくれることになった。車中で話を聞くと、エスキモーの彼女はアラスカ沿岸の島の生まれで、学校が進むと本土に渡ったという。孫たちは全米各地に住んでおり、フロリダにいる孫にも時々会いに行くと言っていた。
アラスカ大学北方博物館。14時頃に到着。前庭には氷の彫刻が置かれていた。
アラスカ山脈。アラスカ大学北方博物館前庭から南のアンカレッジ方向前面に横たわるアラスカ山脈がはるかに眺められる。どれがマッキンレーなのかは分からないが。
アラスカ大学北方博物館。展示ギャラリー入口。有名なブラウンベアの剥製が人目を惹いている。
アラスカ大学北方博物館。細石刃。BC10000~4500年。チャート製。細石核。BC10000~4500年。チャート製。両面石刃。BC10000~4500年。半月形両面石刃。黒曜石製。BC4500~1400年。
人類がシベリアからアラスカへ渡ったのは7万年前から1万年前の間で、数度に亘り移動の波があり、一般的には北方アジア人グループであったとされる。南米・北米へ向かった人類、アラスカに留まった人類がいたということだ。
3万年前までにはアラスカに住んだはずだが、人類の遺物は1万2千年前までのものしか発見されていない。
人類がシベリアからアラスカへ渡ったのは7万年前から1万年前の間で、数度に亘り移動の波があり、一般的には北方アジア人グループであったとされる。南米・北米へ向かった人類、アラスカに留まった人類がいたということだ。
3万年前までにはアラスカに住んだはずだが、人類の遺物は1万2千年前までのものしか発見されていない。
切り込み入り矢じり。水晶製。BC4500~1400年。エンド・スクレイパー。碧玉製。BC4500~1400年。切り込み入り石。水晶製。BC4500~1400年。
18世紀前半、ベーリングらロシアの探検隊が記録したアリューシャン列島民のバスケット類。
18世紀前半、ベーリングらロシアの探検隊が記録したアリューシャン列島民のカップル。
うずくまる男。頭の形は北西アラスカの古典的な形式である。頭の上部が裂けているのは戦闘での負傷を示している。
ペトログラフはアラスカ南東部で多く発見されている。刻まれた絵の意味は完全には解明されていないが、大事な出来事の説明、超自然的な存在のアピール、猟や漁労の権益範囲、旅人への目印などが考えられている。
5年ほど前、ハワイ島の火山地帯付近でハワイ原住民が遺したペトログラフを見た。
ペトログラフはアラスカ南東部で多く発見されている。刻まれた絵の意味は完全には解明されていないが、大事な出来事の説明、超自然的な存在のアピール、猟や漁労の権益範囲、旅人への目印などが考えられている。
5年ほど前、ハワイ島の火山地帯付近でハワイ原住民が遺したペトログラフを見た。
ワタリガラス。ワタリガラスは氏族の重要なトーテムでトリンギット族の伝承において主要な象徴である。彼は世界の創造者で知識、慣習、歴史をもたらすものである。また道徳を守ることよりも策略を用いて勝利するトリックスターとして描かれる。
神話では、ワタリガラスは世界全体の水を管理する泉の管理人を騙して、体を水に濡らした。管理人はカラスを逃がさないように暖炉の火を焚いたが、カラスは煙突から何とか脱出した。そのときに、カラスの羽が白から黒に変わった。カラスがくちばしから水を大地に垂らすと、湖や川ができて人間は水を飲めるようになったという。
神話では、ワタリガラスは世界全体の水を管理する泉の管理人を騙して、体を水に濡らした。管理人はカラスを逃がさないように暖炉の火を焚いたが、カラスは煙突から何とか脱出した。そのときに、カラスの羽が白から黒に変わった。カラスがくちばしから水を大地に垂らすと、湖や川ができて人間は水を飲めるようになったという。
シャチ。海生哺乳類の中では最もペトログラフに描かれている。トリンギット族やハイダ族の神話において鯨類は最も目立った存在である。ただし、彼らが過去において鯨類を捕獲した証拠は少ない。
トリンギット族の人々。トリンギット族の人々は自らをイーグル(またはオオカミ)とワタリガラスの二つの大きな集団に分けていた。一つの集団はさらに約14の氏族または祖先を同じくする家族単位に細分されていた。過去においては、結婚は同じ集団同士間では禁止されており、子供たちは母親の氏族・集団に自動的に編入された。
トーテムポール。ポトラッチに伴って建てられることがよくあった。以前は行事が済むと朽ちるに任せたが、近年は特別な行事のさいに建てられ、保存されることが多くなった。
1900年頃の手斧類と原石。
容器と文様。
服と日用品。
アラスカは太平洋プレートが大陸プレートへ沈降するにつれ高い圧力と高熱により、山脈が隆起し鉱物に富んだ液体がマントルから浮上する地帯になっている。
金・銀・銅。錫、鉛、モリブデンなどの鉱物資源が豊富である。
金・銀・銅。錫、鉛、モリブデンなどの鉱物資源が豊富である。
フランク安田と妻のネビロ。1940年代。フランク安田は新田次郎の「アラスカ物語」の主人公で、エスキモー部族を海岸部からユーコン川流域のビーバー村まで移動させて救い、モーゼとよばれた誇るべき日本人リーダーである。勲章とは本来このような人に授与すべきだろう。
ポイント・バローでの捕鯨風景。フランク安田が指導者であった。1940年代。
日本海軍の記章。太平洋戦争時の戦利品のようだ。
ローズバーグ日本人収容所人名録。ニューメキシコ州サンタフェ。1942年。荒廃した砂漠の中にアラスカ・ハワイなどアメリカ西海岸各地から集められた1500人の日本人が収容されていた。
他の収容所を含めアラスカからは126人の日本人が収容されていた。
他の収容所を含めアラスカからは126人の日本人が収容されていた。
Ward lake evacuation camp。1942年6月3日にアラスカ半島先端のダッチハーバーを空爆、4日後に日本軍がキスカ島を占領し、アッツ島のアリューシャン列島民を捕虜にしたことにより、アリューシャン列島から住民の移転が開始された。日本軍の侵攻が予測された島々では住民が強制疎開させられ、住居は防備のため米軍により燃やされた。
アリューシャン列島民873人が主にアラスカ州東南部沿岸の5か所の避難所に収容されたが、劣悪な環境により107人が亡くなった。1943年の成人男性の帰島を許可したが、残りの者はそのまま収容され、1945年春にようやく帰島した。
アッツ島で日本軍の捕虜になった42人の島民は小樽に収容されたが、劣悪な環境により22人が亡くなった。
「Forced to leave」という小冊子が展示スペースで無料配布されていた。ネットでも見ることができる。人権違反に対する反省をするところがアメリカらしいところだ。
アリューシャン列島民873人が主にアラスカ州東南部沿岸の5か所の避難所に収容されたが、劣悪な環境により107人が亡くなった。1943年の成人男性の帰島を許可したが、残りの者はそのまま収容され、1945年春にようやく帰島した。
アッツ島で日本軍の捕虜になった42人の島民は小樽に収容されたが、劣悪な環境により22人が亡くなった。
「Forced to leave」という小冊子が展示スペースで無料配布されていた。ネットでも見ることができる。人権違反に対する反省をするところがアメリカらしいところだ。