2017年10月5日(木)。
清流部落余生記念館を9時35分頃に出て、オビン・タダオ(高彩雲)夫妻の墓へ行こうとした。
春山明哲氏の著作に墓へお参りしたという記事があったからである。場所は分からない。
埔里へ帰るバスは12時15分頃なので、時間は充分にあった。
清流部落余生記念館から東へ歩いてみた。すると、すぐに防空壕跡があった。
1941年に掘ったと書いてある。
さらに、東へ歩いたが、小道の左側に野犬らしい群れがいるように思ったので、転進して南へ向かった。
高明華ら三兄弟が建設したとあるが、高明華はホーゴー社・頭目タダオ・ノーカンの直系の子孫らしい。
マホモナというカタカナがある。これはマホン・モーナのことである。民(国)前(年)3年は1909年に相当するようだ。1909年5月17日生まれ、民国62年(1973)年3月7日没。張媽秀妹とある。公と媽は死者への敬称らしい。夫は張信介テム・ピド。1903年生まれ、1977年没。
1931年11月4日、モーナ・ルーダオは敗戦を悟り、自決を覚悟した。一族が避難している小屋へ行き、全員に死を命じた。命令に背いた者は射殺したが、マホン・モーナだけは生き残った。マホン・モーナには夫も子供もいたが、子供たちを死なせたあと、自分は死にきれなった。死を恐れて逃亡した、思いきれず投降した、死の寸前に助けられたともいわれるが真相は分からない。
マホン・モーナは日本の討伐隊の捕虜となり、父や兄をおびき寄せる囮にされた。日本側の指示により、指導者となった兄のタダオ・モーナに会って3回投降を呼びかけた。最後の会見は12月8日で、同胞を引き連れて、焼き払われたマヘボ社に戻り、兄に清酒6本を届けた。山から兄が現れて、仲間たちと酒を飲んだが、説得には応じず、「モーナ家の牛は全部おまえにやる。」と言って山に消えた。そのとき、マホン・モーナの着用していた民族衣装の上着を受け取り、その上着を着て縊死し、蜂起戦は終わった。
夫と子供を失ったマホン・モーナはその後再婚したが、子供はできなかった。そこで、バカン・ワリスの娘ルビ・マホン(張呈妹)を養女とし、その婿にパーラン社が移住した隣村の中原部落からパーワン・ネヨン(劉忠仁)を迎えた。その長男はモーナ・パーワンである。
キリスト教式の墓である。
高彩雲は1996年9月1日83歳で亡くなった。高永清は1982年12月10日亡くなった。高永清の戸籍簿が霧社事件のときの焼き討ちで焼失したので、1916年頃に生まれたとしか分からない。
高光華(アウイ・ダッキス、中山初男)はオビン・タダオとダッキス・ナウイ(花岡二郎)の息子で、教職、仁愛郷郷長を経て、両親が経営していた碧華荘の経営にあたっていた。
正面へ近づこうとしたが、雑草に覆われて進めなかった。
墓地で高彩雲、高永清夫妻の墓を見学できたので、次は橋でも見に行こうかと、集落を歩いていると、農家の庭先から突然呼び止められた。
男女4人で酒を飲んでいる風であった。時間はたっぷりあったので、呼び込みに応じた。
日本人だと言うと、片言の日本語で話してきたが、会話は成立しない。
酒は飲めないと断ると、ソフトドリンクと菓子を勧められた。
中秋の月は日本語で何というのかなどと尋ねてきた。
高彩雲、高永清夫妻の墓の写真を見せると、男たちは兄弟で、ホーゴー社・頭目タダオ・ノーカンの孫だというので、驚いた。中国語が話せないので、詳しいことが分からなかったのが残念であった。
タダオ・ノーカンの直系の子孫で、タダオ・ナウイ(Tado Nawi.高信昭)という人がいるらしいが、関係は不明。
セデックかと言うと、子供用の教科書を持ってきた。
蜂起蕃の末裔たちは、日本人に親切であった。
このあと、橋方向へ向かった。
2期作の水田では稲が青々と育っていた。