2017年10月5日(木)。
高永清夫妻の墓から農家を経て、清流橋へ向かうと、三差路にある公園に着いた。芸能などに使われるものとみられる。
清流三角公園の分かれ道を基準点として、その正面の前の道路上の傾斜地の用水路を境としてその下方を下部落(alang Hunac)と呼び、用水路より上の清流派出所が建っている台地を上部落(alang Daya)とし、分かれ道の角の右前方、排水溝を境としてロードフ部落(alang Drodux)としている。
タダオ・ノーカンの孫たちと出会った農家は第1班で、ロードフ部落に属していた。
バス停まで、戻った。道路沿いで一番南にある建物が売店風だったので、覗いてみたら託児所のような場所だった。さらに北を歩いて、11時50分頃バス停まで来たが売店も食堂もない。北へさらに数百m歩くと、小さい食堂で男が何か食べていた。店主の男にこれと同じものと手真似で頼んだ。
おそらく、魯肉飯とスープのようだった。
清流部落発埔里行きのバスは12時15分ぐらいの予定だった。埔里で13時00分発廬山温泉行きバスに乗り継いで、霧社へ行く予定であった。埔里で昼食を食べている時間はない。霧社でどれくらい見学時間を要するのか分からない。埔里市内も歩いてみたい。それ以前に、清流からのバスが13時00分までに埔里に着くかも心配になった。朝は小一時間も遅れたからだ。
結果的には、予定通り霧社へ行くことができた。