人止めの関。霧社。
2017年10月5日(木)。
清流部落から埔里行きのバスに12時15分頃に乗車し、余裕をもって、埔里で13時00分発廬山行きバスに乗り継ぐことができた。目的地は霧社である。昨日、同時刻のバスに乗り、廬山温泉へ行く途中で、霧社を通過したので、様子が分かっている。
霧社方面への天険であった有名な人止めの関は、坂道を登りきってシェルターが続く地帯を出た地点にあるが、昔日の面影はないので、案内板に気が付かなければ、どこにあるかは分からない。今日は人がいないが、昨日はここに停車して記念写真を撮っている人もいた。
霧社バス停の廬山行きバス。
南投客運のマイクロバスである。廬山温泉や廬山へもバスで行く乗客は少ない。霧社は「台湾のスイス」とよばれる清境農場へのバスの中継地で、この路線は大型バスにより運行されており、廬山路線より本数は多い。
霧社は道路の交点となっており、埔里とのバスは頻繁に利用できる。
南投県自然史教育館。
霧社には霧社事件の歴史資料館はなさそうである。バス停西に観光案内所があるらしいが図書館があるだけで、観光案内はない。東の渓谷側に観光案内的な道標があり、南投県自然史教育館という表示があった。何らかの霧社事件の展示でもあるのではないかと、坂道を5分ほど下り、右手に仁愛國小の運動場を見ながら、さらに下ると、校舎と道路を対して左側に予想外に立派な建物が見えた。
入場は無料で、受付で住所・氏名を記入すると、若い女性職員から小さいマグネットパッドの土産品を渡された。主展示室は地下1階にあり、下り階段周りに霧社事件の写真パネルが掲示されていた。
霧社事件の展示は清流部落の余生記念館が詳しい。写真は重複が多い。
清流は抗日部落の末裔が住む集落なので、抗日運動を誇りとして紹介できる。しかし、霧社は日本にとっての味方蕃が論功行賞として与えられた土地なので、抗日を強調することには複雑な意識があると思われる。
自然史の面ではコウモリをテーマとした企画展示があった。原住民文化に関してはセデック族・タイヤル族の展示は少なく、南方山地に住むパイワン・ルカイ族の展示が多い。
セデック族の住居と穀物小屋。石板と木材で建築されている。
文面。顏に入れ墨を入れる慣習があった。
文面。
日本軍。
日本軍。
霧社。
霧社事件時の霧社公学校校長宿舎内の状況。
霧社事件時、日本軍司令官鎌田少将。