徳龍宮(旧霧が丘神社跡)の鳥居。霧社。
2017年10月5日(木)。
植民地時代は神社が山上にあり、階段には霧社事件後に討伐された蜂起蕃の人たちの首が並べられたという。
南投県自然史教育館の見学を終え、廬山温泉方向へ歩いた。警察署の先に鳥居があった。階段を上がって見たが、周辺は工事中のため立入りできなかった。
霧社。中心地。老舗の旅館「霧桜大飯店」が見える。その近くに南投客運のバス停がある。バス通りを西に進むと、記念碑公園がある。
紀念碑公園。門柱が立っている。
紀念碑公園。手前から奥に、モーナ・ルーダオ像、霧社山胞抗日起義紀念碑、モーナ・ルーダオの墓。
紀念碑公園。霧社原住民抗日の像。
数人の人影しかなく、ひっそりとしていた。
霧社事件の現場。霧社公学校跡。現在は台湾電力公司の敷地となっており、当時の面影をしのぶものはない。奥側は崖になっているようで、それほど広い敷地ではない。
霧社事件発生地を示す説明板。保護站というバス停の近くに立てられている。
保護站バス停。廬山温泉・清境農場方向。左の北側に霧社公学校跡がある。
この反対側の埔里方向へ数分歩いた場所に霧社事件で犠牲者となった日本人の墓がある。
霧社事件で犠牲者となった日本人の墓へ向かう階段。
仁愛郷清潔隊の建物の右に階段がある。
「霧社事件殉難者殉職者之墓」。説明板。
公学校の埔里側にある桜台とよばれた高台に、1932年台中州庁は「霧社事件殉難者殉職者之墓」を慰霊塔の形式で建立した。毎年10月27日は慰霊祭が行われ、霧社への来訪者が立ち寄る重要史跡であった。
「霧社事件殉難者殉職者之墓」。跡地。
現在はこの地は公園風に整備されている。空き地の奥に台座のみが残っており、犬が昼寝をしていた。
霧社事件殉難者殉職者之墓は戦後も残っていたが、道路建設をしていた台湾省公路局第六工務段の単なる一職員の外省人が1972年の田中角栄による日中国交回復と台湾との断交の腹いせに、塔にロープをかけてジープで引き倒したため、破壊されてしまった。
慰霊塔の塔の頭の部分のみ、下山家が保存している。霧社の北にあったマレッパ社の駐在であった下山治平とマレッパ社頭目の長女ペッコ・タウレの間に生まれた下山一(林光明)が慰霊塔の破片から塔の頭を持ち帰り、埔里の家を持ち帰り、下山家の墓のそばに保管しているという。
保護站バス停から奥の山を眺める。東南東方向に山が見え、頂上付近に村落が見えており、驚かされる。
おそらく、廬山集落であろうか。その手前の麓に、マヘボ社(現・廬山温泉)があるように思われる。
霧社の事件関連の史跡は事件現場であるのにもかかわらず、余り印象的ではなかった。廬山温泉や清流の方が興趣があった。
15時10分頃、保護站バス停から清境農場方面から来た埔里行きのバスに乗車した。悠遊カードが反応しなかったので、運賃を現金で払おうとしたが、小銭が足りず、あるだけ出して、もういいと言われた。
16時頃、埔里に着き、市内の見学に出かけた。