Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

台湾 九族文化村 タイヤル族建築 マシトバオン社(瑞岩社)住居

$
0
0
イメージ 1
ウエルカムダンス。文化広場。九族文化村。日月潭。
2017106日(金)。
本日は900分のバスで九族文化村へ行き、日月潭で泊まる日程。順路的には正しかったが、湖上のロープウェーが午後遅くになり、曇りがちとなったので、先に日月潭へ行けばよかったかも知れない。また、原住民集落の見学は上部のロープウェー側からが想定して並べられているので、下部のバス停側からは逆向きの見学順路となってしまった。
また、九族文化博物館で日本語版のガイドブックを購入しなかったのも失敗であった。
 
バスは魚池郷を経て九族文化村に925分頃到着した。満員に近い乗客のうち3人が下車したのみで、大半は日月潭までの乗車らしい。
入場料は850元と高い。日本語のリーフレットを貰い、芸能公演の時刻をチェックした。
ショーの開始時刻は祭典会場で1130分、ナルワン劇場で1330分であった。
 
しばらく歩くと、大きな建物(文化広場)の中で、踊りが行われており、周囲は見学者でいっぱいになっていたので、まず近づいてみた。
開園時刻の930分に合わせた原住民のウエルカムダンスのようなものであった。
 
イメージ 2
ウエルカムダンス。文化広場。
ダンスはすぐに終わり、観光客との写真タイムになった。階段の上はアミューズメントワールド。
 
イメージ 3
ヨーロピアンガーデン。
一番下にあるヨーロッパ風の庭園で、右側にはリッツ・パレスという西洋館が建てられている。
 
イメージ 4
文化広場。内部は広場になっている。
九族文化村は右側の山頂(日月潭ロープウェーの駅)方面へなだらかに造られているので、園内にはアミューズメントワールドから日月潭ロープウェーの駅までロープウェーが昇降している。
 
原住民建築しか関心がないので、アラジン広場の横を通って、原住民建築地区へ向かった。
これは逆順になるので、ロープウェーで上まで昇って下ったほうが良かった。
 
イメージ 5
タイヤル族建築集落の下側入口。
 
九族文化村は1986年に開園したが、メインとなる原住民家屋の復元設計をしたのは、建築学者の千々岩(ちぢいわ)助太郎で、1983年から復元作業を指導をした。
 
千々岩助太郎(18971991年)は、名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)建築科を卒業、1925年台北州立台北工業学校(現・台北科技大学)建築学科の教員(のち校長)になった。1947年まで台南工業専門学校建築学科長。戦後は文部省教育施設部福岡工事事務所長、熊本大学教授、九州産業大学教授(のち学長代行)などを歴任した。建築家郭茂林の恩師としても知られる。
 
千々岩助太郎の著作「台湾高砂族の住屋」(1960年、丸善)では、登山が唯一の趣味だった千々岩が1934年冬の大武山縦走のさい、パイワン族集落の風景に魅了されて、原住民の住居の調査を始めることになり、1936年から10年余りをかけ、公務の余暇を利用して430余りの蕃社を調査したという。建築学者の内田祥三・村田治郎の口添えにより、同年から日本学術振興会から研究費が援助された。
 
千々岩の著作は1943年に丸善と出版契約を結んだが、出版直前に戦災により焼失した。印刷した図版と原稿は幸いにも残ったので、本文の一部を削減して1960年に出版した。現在では貴重な調査記録となっており、建築面だけでなく、歴史・風俗面でも参考になる。
 
イメージ 6
タイヤル族建築集落の上側入口。
タイヤル族、セデック族、サイシャット族の建築物が復元されている。
 
イメージ 7
タイヤル族の移動概念図。(千々岩
1960)。
タイヤル族とその亜族のセデック族・タロコ族は埔里と花蓮を結ぶ線から上の北部山岳地帯を中心に分布している。
 
タイヤル族発祥地の伝説は3系統のグループに分かれ、各地に移動した。
  1. ピンスブカン。台中州能高郡マシトバオン社付近の大岩から祖先が生まれたとする。
  2. 大覇尖山。祖先が大覇尖山から降りてきたとする。
  3. 白石山。万大社上流の白石山の老木から男女が生まれて祖先となったとする。 

イメージ 8
タイヤル族住居の基本平面図。(千々岩
1960)。
平面は矩形、単室、平入りのものが多い。まれに、複室、妻入りのものもある。
屋内は土間である。隅部に寝台を配し、その中間に炉を設ける。
 
イメージ 9
タイヤル族住居の基本断面図。(千々岩
1960)。
竪穴式(半地下式)のものと、平地式のものがある。
竪穴式は住家の内部を掘り下げたもので、階段あるいは梯子によって上下している。深さは2mほどのものもあるが、浅くなる傾向がある。
往時は多くのタイヤル族の住屋が採用していたとみられるが、官の指導によって平地式に改められた例が多い。
 
タイヤル族住居の建築様式は4つに分類される。
  1. 中部地方。タイヤル族の大部分の建築様式。竪穴式、平入り、単室の木造家屋で、屋根は直線型でストレート葺、檜皮葺、茅葺など。
  2. 西部地方。バイバラ(眉原)社の住居で、平地式、単室、木造、屋根は曲線型で茅葺。
  3. 東部地方。花蓮地方の形式で、平地式、平入り、単室、竹造、屋根は直線型、茅葺。
  4. 西北部地方。主に新竹地方。平地式、単室、竹造、屋根は直線型で、一部に妻入り、複室がある。
 
イメージ 10
タイヤル族マシトバオン社(瑞岩社)住居。
 
イメージ 11
タイヤル族マシトバオン社(瑞岩社)住居。
 
イメージ 12
タイヤル族マシトバオン社(瑞岩社)住居。
1880年の建築である。
 
イメージ 13
タイヤル族マシトバオン社(瑞岩社)住居。
竪穴式(半地下式)なので、土間へは降りることになる。
 
イメージ 14
タイヤル族マシトバオン社(瑞岩社)住居。説明板。
典型的なタイヤル族中部地方の建築様式である。
 
イメージ 15
マシトバオン社住居の内部。右側。
 
イメージ 16
マシトバオン社住居の内部。左側。
 
イメージ 17
マシトバオン社住居の内部。中央奥。
 
イメージ 18
マシトバオン社。ハック蕃。
1930年代後半から40年代前半。(千々岩1960)。
マシトバオン社は能高郡トオガン山東北方、北港渓左岸にあり、標高1212m
タイヤル族発祥伝説地のピンスブカンはマシトバオン社付近の大岩である。
戸数47戸、人口242名。
 
なお、霧社事件で殺された霧社分室主任佐塚愛祐はマシトバオン社駐在のとき、マシトバオン社頭目の娘ヤワイタイモと結婚している。
 
イメージ 19
マシトバオン社ワッサオ・ピナンの住屋。(千々岩
1960)。
 
イメージ 20
マシトバオン社ワッサオ・ピナンの住屋。(千々岩
1960)。
 
イメージ 21
マシトバオン社ワッサオ・ピナンの住屋。平面図。(千々岩
1960)。
 
イメージ 22
マシトバオン社ワッサオ・ピナンの住屋。断面図。(千々岩
1960)。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles