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台湾 九族文化村 卑南族(プユマ族) 卑南社少年集会所 布農族(プヌン族) 加年端社(カネトワン社)頭目の住居 打馬復社(タマホ社)住居  

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卑南族(プユマ族)卑南社少年集会所。九族文化村。日月潭。
2017106日(金)。
プユマ族(卑南族)は主に台東市と卑南郷に住み、人口は約一万人、知本と南王のグループに分けられる。プユマ族は漢人化と農耕技術を比較的早い年代に受け入れた。

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卑南族(プユマ族)卑南社少年集会所。
 
社会組織の上では、世襲的首長制と年齢階梯制をもち,貴族層と平民層との分化がみられる。伝統的なプユマ族は母系制度で、男性は年齢階級によって組織される。青少年集会所はスパルタ式の年長者の教育訓練所であった。
粟の焼畑耕作を生業としていた。
 
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プユマ族巫師の住居。医療の様子。
 
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プユマ族巫師の住居。案内。
巫師(女性)として認められると、生涯同じ住居に住んだ。
プユマ族はアニミズムを信仰し、万物に精霊があると信じていた。巫師は医療と避邪の儀式を主宰した。また、パイワン族とアミ族はプユマの女巫師の黒魔術を恐れていたという。
 
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布農族(プヌン族)加年端社
(カネトワン社)頭目の住居。
プヌン族は台湾中南部の標高約1500メートルあたりの高山地帯に住んでいたが、日本植民地期の移住政策後、標高1000m以下の山麓へと集団移住させられ、現在は南投県仁愛郷・信義郷、花蓮県萬栄郷・卓渓郷、台東県海端郷・延平郷、高雄県桃源郷・那瑪夏郷などに居住している。現在の人口は約5万人。
 
社会組織は、長老制度による父系氏族大家族社会で、長老者会議各家族の長老たちが集まり村の政策決定を行なう。民族意識が強く、民族の固有言語を保っている数少ない台湾原住民族である。
ブヌン族の粟の豊作を祈る歌は「八部和音唱法」で世界的にも有名である。
ブヌン族は太陰暦を使用し、縄の結び目で日付を記録する。月ごとの祭儀は月の満ち欠けに基づいて行われる。
 
加年端社(カネトワン社)は旧台中州新高群丹大渓右岸、標高1515mの地点に所在した。戸数11戸、人口112人であったが、千々岩助太郎が調査した時点で、強制移転させられ、廃村となっていた、
 
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加年端社
(カネトワン社)頭目の住居。
千々岩助太郎が調査したのは1940年代前半のようである。
カネトワン社は、現在の南投県信義郷地利村に移転している。信義郷は南投県の東部に位置し、台湾最高峰の玉山を域内に含む。北は仁愛郷及び魚池郷、東は花蓮県、西は水里郷、南西は嘉義県阿里山郷と接している。
 
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加年端社
(カネトワン社)頭目の住居。説明板。
プヌン族は大家族制度をとり、3世代以上の家族が同居する。
 
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加年端社
(カネトワン社)頭目の住居。平面図。
室内の居間には両端に炉があり、寝台は近くに並んでいる。
入口は左右にある。室内の中央奥にある粟の穀倉は聖所とみなされ、寝台も近くに並ぶ。であり、中央の穀倉左側に家長夫婦が生活する。入口の軒下には多くの獣骨が架けられ、一家の狩猟能力を誇示し、また狩猟の成功をその前で祈る場となった。
 
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加年端社(カネトワン社)頭目の住居。室内。
獣皮が展示されている。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。門。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。前庭。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。正面。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。室内。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。配置図。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。平面図。(千々岩
1960)。
 
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カネトワン社カイスル・マンラワンの住居。断面図。(千々岩
1960)。
 
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プヌン族打馬復社(タマホ社)住居。
タマホ社は旧高雄州旗山郡の奥地荖濃溪流域の標高15002000mの峻険な高地に数戸ずつ点々と散在する蕃社で戸数33戸、人口311人であった。現在は高雄市桃源区の建山里(玉穗 Tamahu)にあり、北に玉山がある。

桃源区は高雄市北東部に位置し、北は南投県信義郷と、東は台東県海端郷、花蓮県卓渓郷と、西は那瑪夏区、甲仙区、六亀区、嘉義県阿里山郷と、南は茂林区とそれぞれ接し、県内最大面積、全国でも第6位の面積を有す地方行政区域である。玉山山脈南麓に位置するため全域が山岳地帯で構成されており、平地は極めて少ない。
 
タマホ社は花蓮県玉里郡ターフン社(大分社)および台東県関山郷ブルブル社などで、獰猛に凶行を働いた者が、官憲を怖れて1915年ごろから逃避移住してきた者たちが形成した比較的新しい集落である。彼らは移住後も、高雄州、花蓮港庁、台東庁へ出没し、抗日活動を続けた、
1933年にラホアセ一家その他が帰順して、ようやく全島の原住民が帰順した。
 
打馬復社は玉穂社と同じと思われる。ラホアセと思われる拉荷阿雷は抗日英雄として著名である。
 
千々岩助太郎が193812日にこのタケシラン・ラホアセの住居を調査したときには、26人の家族が暮らしていた。室内には粟がうず高く貯蔵されていたという。
 
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プヌン族打馬復社(タマホ社)住居。説明板。
大家族が住む大規模な家屋である。平入りで、入口は中央にある。壁は四周とも厚さ3㎝のヒノキの板割を縦に用い、屋根もヒノキの板葺である。
 
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プヌン族打馬復社(タマホ社)住居。平面図。
寝台は前面に6カ所あるほかに穀倉の両端にも設けられている。炉も両側にあり、左は家族の煮炊き用、右は豚の餌用である。
中央の柱と粟の穀倉は神聖な場所で、その前では粟祭などの祭祀が行われた。
居間はスレート敷きであった。
 
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プヌン族打馬復社(タマホ社)住居。室内。
 
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タマホ社住居。正面。(千々岩
1960)。
 
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タマホ社住居。室内。(千々岩
1960)。
 
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タマホ社住居。室内。(千々岩
1960)。
 
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タマホ社住居。平面図。(千々岩
1960)。
 
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タマホ社住居。断面図。(千々岩
1960)。

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