2017年10月6日(金)。
茅葺き屋根で、ツォウ族特有の半截楕円球体の形状をしている。曲線型の小屋組みを構成するために小さな垂木または竹の木舞を籠状に組み合わせる。
壁は丸太の掘立柱の間に丸竹や丸太の貫を架し、これに茅茎や竹を結束して造る。
1900年頃の建物で千々岩助太郎は1938年に調査している。
入口は建物の前後にあり、前側は男性専用で、後側は女性専用である。後部入口付近は作業場となっている。
男性は前部の入口を使用し、女性は後部および側部の入口を使用した。
中央棟木を支える柱は2本ずつ上端で交差するように傾斜して建てられている。
中央に炉が2か所あり、その上に棚がある。
室内の一隅に豚の飼料を焚く炉があって、専用の通路がある。
高床式建物で、神聖な場所として婦女子を近づけない。
トフヤ社系は屋外に別棟として造り、タッパン社系は室内の入口左側に造る。
楽野社は石棹のすぐ南にある部落で、曽文渓上流右岸、標高1260mの地点に所在する。当時の戸数25戸、人口170人であった。原住地はトフヤ社で1440年頃、農耕地を求めて移住してきた。
阿里山郷の郷公所(日本の町役場に相当)は近年まで達邦にあったが、交通至便な楽野村に移転した。
1910年頃の建築。千々岩助太郎が1938年に調査している。小集落は集会所を持たず、獣骨架のみ認められ、集会所に似た機能を持っていたが、重要な祭典の開催時にはトフヤのような大社に代表団を派遣した。
伊母智社は、阿里山北西部の清水渓左岸にあったというイムツ社または来吉、豊山付近にあった伊母祝社と関連があるとみられるが不明。
これで建築関係は終わり、九族文化博物館へ移る。