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台湾 九族文化村 鄒族(ツォウ族) 達邦社(タッパン社)集会所

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鄒族(ツォウ族)達邦社(タッパン社)集会所。九族文化村。日月潭。
2017106日(金)。
ツォウ族は南ツォウ群と北ツォウ群に分類されてきたが、2014年に高雄県に住む南ツォウ群はカナカナブ族およびサアロア族として、独立した原住民族として承認された。その2族の人口はそれぞれ300人に満たない。
 
北ツォウ群は人口約6000人で嘉義県の阿里山周辺に分布し、「阿里山ツォウ」群とよばれた。
古くは北ツォウ群には「特富野(トフヤ)」、「達邦(タッパン)」、「伊姆諸」、「魯富都」社の四大社があり、それぞれがいくつの小社を管理して、連盟や敵対の複雑な関係をとっていた。しかし20世紀初頭の伝染病の流行により、伊姆諸社と魯富都社は首長家が絶えたことで廃社となった。

現在、北ツォウ群は特富野社と達邦社の2大社が小社を管理しており、特富野社には来吉、里佳、楽野、達邦社には新美、茶山、山美がの部落が属している。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。
達邦(タッパン)は曽文渓の源流部ニシキアナ渓沿岸にあり標高985mの地に所在する。当時の戸数46戸、人口280人。伝承では玉山を発祥地とし、1140年頃にニシキアナに移住し、1240年頃に現在地へ移住してきたという。
 
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現在の達邦社(タッパン社)集会所(クバ)。
2017108日撮影。
達邦(タッパン)は嘉義から阿里山への中継地である石棹からバスで30分ほど下った山中にある。戦後の白色テロで殺害されたツォウ族のリーダーで音楽家の高一生(矢多一生190854)は、トフヤで生まれ、日本統治時代にはタッパンで警官として勤務していた。タッパンには、そのときの官舎が再建されており、ツォウ族の博物館やクバもあるので、嘉義からバスで往復して見学した
 
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邦社(タッパン社)集会所。儀式の様子。
ツォウ族の集会所はクバ(庫巴)とよばれ、社会組織の中心であり、集落の重要な会議や祭典は全てここで行われた。ツォウ社会は、厳格な父系社会で、各氏族の長老によって村落全体の問題を解決する合議制が採用され、頭目が実務を担当する社会構造となっている。
 
祭典の中でも有名な戦祭(マヤスビMayasvi)は集会所の前の赤ガジュマルの神木の下で行われる。このため、その赤ガジュマルの樹は神木とされ、普段触ることは禁止されている。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。案内。
1880年ごろに建築された集会所を再現している。千々岩助太郎は1938年に調査している。

男子は1112才になると、集会所で寝泊まりし、狩猟、軍事訓練、長老から歴史・氏族の伝統などの訓話を受けた。
また、男子は生後1年の年末になると父に連れられて集会所に赴き、竹の杯で酒を盛られ、頭目や長老たちから氏族の成員として承認された。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。説明板。
集会所は茅葺で壁のない吹き抜けの高床式建物で、床高は1.2m。正面および背面から木梯子で昇降する。建物の隣にはバニヤンの木があり、葉の影が建物を蔽っている。

室内には、敵の首を飾る棚と火器の収納箱が置かれて、重要な象徴であった。小さい集落には集会所は造られず、獣骨を架ける建物が造られた。日本統治時代に首棚は撤去された。

集会所の前面両側には石積みがあり、ラン科植物の石斛(セッコク)が植えられていた。


室内のほぼ中央に炉があり、地盤面から石と土で築き上げている。左側面に柱間の一部に頭骨架が設けられていた。
女子は入室を禁じられていたが、この平面図には女子の席が記されている。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。正面。(千々岩
1960)。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。室内。(千々岩
1960)。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。脚部。(千々岩
1960)。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。平面図。(千々岩
1960)。
 
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達邦社(タッパン社)集会所。断面図。(千々岩
1960)。

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