2017年10月9日(月)。
入館無料。日本統治下時代の1912年に開設された。10分ほど見学。
下左に奮起湖、下右にトフヤ社。森林鉄道路線は赤く表示され、奮起湖方面から登って、スイッチバックを繰り返して山上の神木駅に至り、右上の阿里山駅(現・沼平駅)に向かい、さらに、左側へ延びている。
中央上に祝山がある。動物園・植物園予定地の標示もある。
阿里山の山上には樹齢1000年を超えるタイワンヒノキ(紅檜)が多く自生している。
当時は大量に伐採され、日本へ運ばれた。靖国神社の神門や橿原神宮の神門と外拝殿、東大寺大仏殿の垂木など、日本の多くの神社仏閣に阿里山のタイワンヒノキが使われている。
1907年、阿里山森林鉄路の建設時にアメリカ合衆国のライマ機関車製造製13トン蒸気機関車が1両輸入された。このSLは一般的なSLと異なり、直立したシリンダーと傘歯車(ベベルギヤー)を使用し、ボギー台車を持った山岳用の特殊な設計である。
阿里山への開通後に続々とライマ社製の8両の18トンSLと12両の28トンSLが輸入された。これらは全てシェイ式と呼ばれる直立シリンダーと傘歯車を持つSLである。ライマ社の分類ではクラスBと呼ばれる大きさで、軌間は762mmである。
スイッチバック設備があった。
阿里山を開発した日本人が、大量に木を伐採したことから木への供養として、阿里山神社の神苑に1935年に建てた供養塔。塔の下の輪は500年樹の年輪を模している。
河合鈰太郎(したろう、1865年~ 1931年)は名古屋出身の林学者。日本統治時代の台湾において阿里山森林資源の開発と、その手段として世界有数の登山鉄道阿里山森林鉄路の建設を提唱した。その功績から「阿里山開発の父」と呼ばれている。
阿里山の開発は、1896年に日本陸軍中隊長・長野義虎が阿里山の登頂に成功し、巨大密林を発見したことから始まった。その情報を基に、撫墾署の斉藤音作を隊長として調査が行われ、新高山西方に樹齢千年以上の高品質の針葉樹林が1000㎢にも及んでいることが判明した。しかし、地勢が厳しく道路の建設が困難であり、河川も流れが急で利用できず、木材を運び出すことはできなかった。
幾多の運搬計画が検討され、安全で大量輸送が可能な森林鉄道が採用された。1900年鉄道部技師飯田豊二は、森林鉄道が敷設可能か否かの調査を開始し、結果を台湾総督府に報告した。
その報告を基に1903年、台湾総督府の民政長官であった後藤新平は、ある人物に開発とルート選定を委任した。その人物こそが後の阿里山開発の父といわれた東京帝国大学林学博士の河合鈰太郎であった。彼は森林利用学の研究のためドイツへ留学した経験をもとに計画を立て、阿里山線の独立山駅前後の3連スパイラルループを考案した。
有名であった初代の「神木」は、1997年の落雷でダメージを受けた後1998年に切り倒され、第2代の神木として2007年に登場したのが、昔は「光武檜」と呼ばれていたこの神木である。
この樹木の種類はベニヒノキで、巨木群桟道の中で一番背が高く、樹齢も一番古い巨木である。
巨木の上には黄花著生杜鵑(ツツジ属)やワラビツナギなど台湾特有の植物が自生しています。
幹周り12.3m、高さ45m、樹齢推定2300年、標高2207m。
記念写真を撮る人が多い。後ろに、琴山河合博士旌功碑が見えている。
神木駅へ向かう。